<<馴犬心 jyunkensin>>
いろんな気性の犬がいる。犬の気性は百犬百色だ。
人に馴れ易い犬もいる。馴れ難い犬もいる。
あるいは生い立ちにより、もの凄く馴れ難い犬もいる。
飼主は誰でも、馴れる犬を求めるだろうが、
もし馴れ難い犬だったら、どうするか??
多くの場合、可愛くなくなるだろう。
「生意気な!!憎たらしい!!」となるだろう。
そしてだんだん、面倒を見なくなるだろう。
そういう事態は、結構多いのではなかろうか。
もちろん馴れなければ世話にも支障が起こるだろうが、
だからと言って飼育放棄は赦されることではない。
そういう犬の場合には、特に飼主の心構えが重大だ。
「馴れようが馴れまいが、その犬を愛する!!」
この姿勢こそが解決への唯一の道である。
ほんとうに、これしか無いのである。
「馴れようが馴れまいが、その犬を愛する!!」
もしこの姿勢を貫けるなら、だんだん道が開けてくる。
「馴れる:懐く」というのは、「結果!」なのである。
最初から結果を求めてどうするのか??
どこまでも「結果」として「馴れる:懐く」なのである。
「絶対、俺に懐かせてやるぞ!!」
そのような下心は、犬に見抜かれる。
そのような下心は、犬から見れば不純だ。
それは所詮は人間の支配者意識から出るものなのだ。
そうではなくて、「馴れようが馴れまいが!!」である。
その精神姿勢を犬は本能の深い部分で分かるのだ。
しかし時間は掛かると覚悟すべきだ。
犬によって要する時間は様様だが、
「時間もまた重大要素」であることを、
まずはそれを知っておくべきである。
「俺なら即座に懐かせられる!!」と豪語する人は、
「俺は犬を知らない」と言っているようなものだ。
ほんとうに犬を知る人ならば、
「時間もまた重大要素」だと分かっているはずだ。
馴れようが馴れまいが己の自然体を崩さず、
馴れようが馴れまいが心から愛せるならば、
その犬はだんだん心を開き、信義へと向かう。
その犬は、その人をリスペクトするようになるからだ。
その犬は、その人の精神姿勢をリスペクトするのである。
最初は唸られることもあるだろう。
牙を剥かれることもあるだろう。
だがそんなことに動揺していたら前には進めない。
唸られようが牙を剥かれようが動じないことが重大だ。
犬はそれを心の深くで無意識に「見ている」のである。
唸られても牙を剥かれても自然体でいられるか??
そこが分かれ道である。難しいことだが。
確かに極めて危険な犬もいる。それは事実である。
普通は「警告気配→警告→防衛攻撃」の感じだが、
それを短く省略してしまう犬もいるのである。
だが先天性異常攻撃衝動の犬で無い限りは、
それはあくまで「防衛意識」の範疇である。
それは「犬の本気の攻撃」とは異なるのである。
だからもし牙が来たとしても、
なんとしてでも絶対に「泰然」を貫くことだ。
それしかほかに、大怪我回避の道は無いのである。
怪我を最小限に抑えるためには、それしかないのだ。
もちろん「身体の対応」は必要なのだが、
それを書くと長くなるので手短に済ませるが、
「身体も、逃げてはダメ」ということだ。
逃げれば、怪我は大きくなる。
逃げずに、瞬時に犬の興奮を鎮める。
興奮が鎮まれば、普通は咄嗟に犬は牙を離す。
≪そうでないとしたら、それはもはや「攻撃」である≫
だから興奮を鎮めることこそ唯一最大の手段だ。
その「興奮を鎮める」というのは、言葉で説明が難しい。
それこそ「感覚!」の領域なのである。
しいて言うならば、「胆声力」が大きな力を発揮する。
これは己の「心気」を声にして胆から発声するものだ。
胆声力は、犬の動揺や興奮を鎮める力を持つのだ。
よく「気!」という言葉が使われるが、「気」は術ではない。
それを「術!」だと理解すると真髄から遠ざかることになる。
「気」は「心気!」であり、己の心こそが母体なのだ。
「馴れようが馴れまいが愛する!!」
もしこの姿勢を貫けたなら、
その人は「大きな力」を得ることになる。
その犬との関係だけに留まらず、
その人は「尊い力」を得ることになる。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2013:10:25 ≫