<<愛犬手綱道・02>>
今は実に色色な犬具が売られている。
犬を制御する道具も、色色と売られている。
飼主それぞれに事情があるだろうから、
そういう道具も必要とされるのだろう。
もちろん適切な使用方法も知っているはずである。
制御道具は「適切な使用方法」が大前提なのである。
もし「不適切」な使用方法ならば、
それはその瞬間に、虐待道具に変身するのだ。
だからくれぐれも「適切な!」を肝に銘じるべきだ。
※特に注意すべきは、不測の事態の時の犬体の安全だ。
常にアクシデントの時を想定して厳重配慮すべきだ。
たとえばチョークチェーンカラーで係留するなど絶対厳禁だ。
もし際限なくチェーンが締まれば、どういうことになるか!!
もし「首輪抜け」する危惧があるとしても、
「範囲限定の限定チョーク首輪」に留めるべきだ。
普通首輪と限定チョーク首輪を組合わせればいいはずだ。
※あるいは首だけでなく、胴体も締まる道具もあるようだが、
それについても同様に厳重注意すべきである。
不測の事態で際限なく胴体が締め込まれたらどうなるか!!
考えただけでも怖ろしいことである!!
※それがたとえ必要な制御道具だとしても、
余りにも「安易に」「気軽に」使う人が多過ぎるのである。
まず、使う際には、己の姿勢を糺すべきである。
それは己の姿勢を糺してから使う道具なのである。
しかし「道具」以前に、大事なことがある。
自分の身体の身体操作である。
身体操作は道具以前の大前提なのだ。
それに関心を寄せる人は少ないようだが、
それは絶対に研鑽練磨していくべきである。
自分のそれを練磨せずに、
最初から道具に依存する人も多いようだが、
その依存心があるうちは、絶対に自分を練磨できない。
たとえ道具が必要だとしても、依存姿勢は禁物なのだ。
常に「もし道具が無かったら・・」の心境を忘れないことだ。
そうすれば自分の身体操作を練磨していけるはずだ。
もしそれを練成すれば、臨機応変の対応が可能となる。
この「臨機応変!」というものが重大なのである。
身体操作を言葉で説明するのは難しい。
それはかなり「感覚」の領域なのである。
感覚の領域だが、あえて言うとするなら、
「手指・手首・肘・脇・肩・背中・腰・膝・足首・足指」である。
・・・つまり「全身」である。常に全身を使うのである。
それは「体心核」を常に意識して動作すると言うことだ。
体心核を中心に動作して全身力を発動させる。
これは「大袈裟な動き」の意味では無い。
最大力を発揮するための「合理的な動き」のことだ。
言葉では説明が難しいのだが、
要は「手指・手首・肘・脇・肩・背中・腰・膝・足首・足指」である。
この身体各部分を自分なりに意識して動作していけば、
体心核動作も全身力も、だんだん分かってくるはずである。
動き一つで、動作次第で、対応力は全く別次元になるのだ。
だから非力な人は、なおさらに身体操作を学ぶべきだ。
たとえ非力でも全身力で大力に近づくことは可能なのだ。
昔、調練者時代には、一人で四十頭くらいを調練していた。
まさしく一年三百六十五日、朝の五時から深夜の十時まで、
世俗と隔絶して完全な「手綱道」漬けの毎日だった。
その時、理屈抜きで己の身体操作が要求された。
それ無しには、己の任務を果たすことはできなかった。
だから何年も何年も、己の身体操作を練磨し続けた。
これまで実に様様な犬種達と手綱道をともにしたが、
真狼と北極犬の「力」は異質な異次元だったが、
犬として「力」で印象に残るのは、雄の英マスティフだった。
英マスティフにも、いろんな「タイプ」がいるのだが、
その彼は骨格構成が見事であり、「動ける」マスティフだった。
ただ大きく重いだけのタイプとは異なるマスティフであり、
超大型でありながら、特に後躯の構成が素晴らしかった。
超大型になると、普通はどうしても後躯が弱くなるのだ。
彼は肩高が「90cm」近くあり、実に巨犬だった。
肩高や体重を「大袈裟に誇張する飼主」は多いのだが、
犬種と肩高と体重を聞けば、誇張かどうかは大体分かるが、
英マスティフの「90cm」というのは、見る人が驚く大きさだ。
なにしろ骨量が凄いのだから、他犬種とは意味が違うのだ。
とにかく彼の「力」は、圧倒的な「極大トルク」であった。
パワーというよりも、「トルク!」と言った方がいいだろう。
彼が何気なく僅かに動いただけで、
それこそ大の男が簡単に身体を持って行かれるのだ。
まさに健全骨格構成・骨量充実の雄の極大犬の「力」である。
余りに彼の「力」が凄すぎるので、全く調練されていなかった。
依頼された私は、彼を普通首輪で調練した。
依頼者からはチョーク・チェーンを渡されたが、
私はそれを使わなかった。必要が無かったのだ。
普通首輪でも「犬への伝達」は可能なのである。
自然体で彼と手綱対話することが、私の任務だったのだ。
綱も片手で握れる太さのものだ。
太綱では、いざと言う時に片手で握力を入れにくいからだ。
余程の緊急事態で無い限りは、片手制御が大基本だからだ。
「手綱対話」は、まず、己の精神姿勢である。
まず己の姿勢を糺し、そして己の身体操作である。
犬達は、自分の全感覚で、手綱を持つ人を感知している。
犬達は、一見すると何も考えていないようで、
実は自分の全感覚を動員して、その人を感知している。
彼らは無意識のうちに、「総合判断」しているのである。
だからハンドリングの「技巧」だけでは限界を迎える。
いずれ根本の「心身の姿勢」が問われるのである。
そして手綱に、命を吹き込む!!
手綱に命を吹き込んで、己と一体化させる。
大袈裟に聞こえるかも知れないが、
そのくらい真剣になる心構えが必要なのだ。
いつでも!!どんな時でも!!
なぜなら手綱は、愛犬との「命綱!!」なのだから。
だから手綱を「死んだ状態」にしてはならないのだ。
今は私は深山でフリー運動も多いが、
いざ手綱を持つ時は、手綱道姿勢で手綱を持つ。
※よく「アイ・コンタクト」と言われるが、対話は「目」だけでは無い。
犬達は「目」だけでは無く、己の全感覚で相手を見ている。
もちろん目で見ているが、目だけでは見ていないのだ!!
その「全感覚!」ということを、知っておくべきである。
犬達から較べれば、人間達は「見る」に於いて怠慢である。
人間達も、己の全感覚!を動員して「見る!」べきだと思う。

1985年の頃。北極エスキモー犬の「雷:Lai」。
ライのパワーと動きは、いかなる犬種とも異なるものだった。
「鍛錬体重で45kg」の大型だったが、動きの鋭さが別世界だった。
ライの動きの鋭さは、この写真の彼の眼光そのものだった。
とんでもなく鋭い動きと重いパワーの相乗となるので、
その「手綱の手応え」は、まさに別世界であった。
それに瞬間に対応するために自分を練磨した。
ライが私に「手綱道」の根幹を教えてくれた。
ライとは毎日毎日、20kmを運動した。徒歩と自転車で20km。
その当時の仕事は土方でスコップマンだったが、
その重労働の前と後に、一日も休まずライとの運動に行った。
ライとの運動と土方労働と食事と睡眠だけの、それだけの毎日だった。
その頃の毎日が、私の手綱道の原点だ。

ライの父犬。野性の力そのもの。
■南無華厳 狼山道院■
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