<< 犬 と 人 >>
 
犬は元元は野生の肉食狩猟獣だった。
それが長い年月の馴致の果てに「犬」となった。
馴致の果てに「犬」となったが、
元元は野生の肉食狩猟獣だったのだ。
それを想えば今の犬達が、
どれほど自制心に満ちているかが分かるはずだ。
どれほど本来の自分を我慢して、
どれほど自分を譲っているかが分かるはずだ。
この辺のところを分かるか分からないかで、
犬との生活は全く別次元の展開となる。
この辺のところが「分かれ道」なのである。
 
その「元の姿」を考えてみれば、
犬達が「どれほど穏やかか!」が分かるはずだ。
人間という異種族に対して、
これほどまでに健気に穏やかに忠実になれる犬達に、
人間はもっともっと驚くべきである。
もっともっと驚いて、心の底から敬意を払うべきだ。
それなのに人間達は、それに気づきもしない。
それに気づかないし、そういう発想ができない。
それどころか、この天使の犬達を虐待する。
虐待し飼育放棄して彼らを絶望の淵に追い込む。
なんでそんなことができるのだ人間達は!!
人間達は悪魔なのか??
悪魔としか思えない所業を人間達は平気で行なう。
 
人間には魔心が深くに潜んでいる。
狂暴な攻撃欲。破壊欲。虐待欲。支配欲。
そういう残酷極まる魔心が潜んでいる。
「そんなことは無いよ!」と言う人も多いが、
そういう人は「そう思いたくない!」のだろう。
そう思いたくない!という願望なのだろう。
ただし人によって魔心の強烈さは異なる。
それを自制で抑えられる人もいるが、
抑え切れない人は魔心を発揮するために、
いつもいつも「口実」を探し求めている。
そして「口実」を見つけて魔心欲求を満足させる。
いろんな場面で目ざとく「口実」を見つけ出すのだ。
人間世界の様様な場面で魔心は発揮されているのだ。
それを考えれば、いろんなことが明らかになる。
たとえば「虐め」。たとえば「リンチ」。たとえば「拷問」。
あるいは際限なき誹謗非難など。
そういったことを人間は「理由付け」しようとするが、
たとえば環境や政治や宗教に原因を求めようとするが、
それらに原因を求めて人間は魔心を否定しようとするが、
それがそもそもの間違いだと思うのである。
まず人間は自らの魔心を潔く認めるべきだと思うのだ。
そうすれば、いろんなことがシンプルに解決していくはずだ。
本当ならシンプルに解決できることを、
わざわざ人間は捏ね繰り回して問題を見えなくする。
もしかして、わざとそうやって目を逸らそうとするのか。
たとえば飼犬に対する非情飼育。
そこに理由付けなど無用だ。
それはどこまでも「非情」の問題だ。
飼主に一片でも温情があるのなら、
最後の最後で飼主は踏ん張るはずなのだ。
たとえその人間が怠惰性格であろうとも、
最後の最後に頑張って愛情飼育に近づけるはずだ。
それさえできないということに理屈は無用だ。
非情だから放置するのだ。それだけである。
もし自らに温情があれば、最後に「力」が湧いてくるはずだ。
自らの温情が、怠惰を制する「力」を生み出すのである。
そのことを知らない人が多いようである。
そのシンプルな摂理を知らない人が多過ぎるのだ。
やたらと理由付けしようとするから見えなくなるのだ。
あるいは「怠惰による放置」だけに留まらず、
飼犬の苦悶を見ながら喜んでいる飼主もいる。
命が苦しむ姿を眺めて内心で喜ぶ人間もいるのだ。
これはもう「魔心」そのものである。
相手が犬だから飼主は処罰を受けることも無い。
社会的にも世間的にも追い込まれることは無い。
のうのうと、のほほんと、犬を相手に魔心を発揮できるのだ。
犬という天使が魔心人間という悪魔に拷問されるのだ。
これは別世界の話では無いのだ。
この世間で繰り広げられている現実なのだ。
多くの犬達は商売人により無理やり現世に生まされる。
そして怠惰人間や魔心人間にも簡単に売られていく。
犬たちの悲劇が終わらないのは当然の話なのである。
動物愛護家達は「なんで?なんで?」と口口に言うが、
こういう実態なのだから悲劇が後から後から続くのである。
人間に潜む魔心を軽く見てはならない。
世の中は人間の魔心を甘く見すぎている。
幽霊などのオカルトどころの話では無いのだ。
幽霊よりも人間の魔心の方が格段に怖ろしいのである。
 
ところで今の犬達は前述したように、
本来の姿を自制して人間世界に恭順している。
ところが、それとは真逆の相反する要求を強いる人達もいる。
たとえば「番犬」。たとえば「闘犬」。たとえば「格闘型狩猟犬」。
たとえばこれらは、
世間伴侶犬とは相反する一面を求めることになる。
相反する一面を強いながら、世間伴侶犬としても満点を強いる。
この矛盾に気づいていない人が多い。
この矛盾に気づこうともしない。
その犬達は、常に困惑と葛藤の中で生きるのである。
常に相反する矛盾を突きつけられて生きていくのである。
その状況で精神の均衡を保つことは相当に至難である。
「人間に対して誰にでも穏やかになれ!」
「ほかの犬達と徹底的に仲良くしろ!」
「動物を見ても絶対に追いかけるな!」
「走るな!ゆっくり歩け!いつもそこに座ってろ!」
たとえばこういう要求を人間は、当たり前の如くに強いるのだ。
相反する傾向性を要求しながら世間伴侶犬同様を強いるのだ。
当たり前の如くに強いていることに、人間達は気づかないのだ。
それに気づくか気づかないかで、
犬との生活は全く別次元の展開になる。
飼犬問題など、普通は起こらないものなのだ。
真に「犬という命」を知れば、問題など起こらないのだ。
だが「問題では無いこと」を、問題だと思い込む飼主も多い。
問題では無いことを問題視する飼主が問題なのだ!!
それが問題では無いことを理解できない飼主も多いのだ!!
私は過去に護衛犬種とも闘犬種とも格闘型狩猟犬種とも暮らした。
もちろん彼らは、私を慕い私と対話し私を仰いでくれた。
私と彼らは、揺るぎない深い信義で結ばれていた。
だが私は、彼らに無理難題は突きつけなかった。
彼らと第三者の間には、細心注意で「間合い」を配慮した。
配慮に気を抜くことなど、ただの一瞬も無かった。
彼らは常軌を逸した過酷淘汰で先鋭化された歴史を持つのだ。
どれくらい常軌を逸したものだったかを知らない人が多いが。
その先鋭傾向を今は格段に薄められた犬種が多いが、
しかし全く皆無とは言い切れない。商売人は商売口上するが。
しかしもしも傾向部分を全否定して飼うとなると、
それは「その犬を否定すること」になってしまうのだ。
「その犬を否定しながら飼う」ということは、どういうことだろう。
その犬は一生を理解されない孤独のままに終えるだろう。
その犬の深くに眠る傾向性を充分に理解し、
それに対して慎重に配慮をすることも、
それもまた「愛情」なのである。
それもまた愛情であることを知るべきだと思う。
 
※犬の祖先は狼と親類関係の原始野生犬だろう。
もっと遡れば狼族の狼種だとも言えるだろうが、
今の犬の直接の祖先を「狼」だと想像するのは早計だろう。
たとえば北方大型狼は今の犬の直接の祖先とは考え難い。
たとえ犬の祖先が狼種であったとしても、
今の北方大型狼のようなタイプとは異なる狼種だっただろう。
もっとも簡単に言うとするなら、
「人間に親近感を覚える傾向の強い狼種」だっただろう。
そういう意味では狼種の中でも異色の存在だっただろう。
普通は狼は人間に対する警戒心に満ち満ちているのだ。
そして狼種の中では非力の部類に属していただろう。
少なくとも大型で強力な狼種では無かったはずである。
体格で言えば今のディンゴくらいの大きさだっただろう。
もし北方大型狼のような強力な狼種ならば、
そもそも人間に近づく必要など無かったからである。
そして人間にとって強力狼は、あくまでも「猛獣」だったのだ。
だから犬の祖先は、狼種の中でも異色のタイプだったと思う。
※一般に人人は、あまり犬族狼族の体格とか雰囲気とか、
そういうことは深く見ないと思われるが、
たとえばコヨーテと狼の違いさえ分からない人もいるようだ。
一目で瞬間にコヨーテと狼の違いが分からないようでは、
たとえばハスキーやシェパードと狼とを混同視してしまうかも。
どこがどう違うのか感覚で分からない人も多いようだが、
そうだとすると狼犬と狼との違いなど全く分からないだろう。
だがこの「見分ける感覚」というものは重大なのである。
それが無いと、その種の本質も真髄も知ることはできない。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2013:10:11 ≫