<<異種の命に対する意識の進化>>
 
異種の命に対する意識の進化が無ければ、
動物飼養放棄や動物虐待は決して無くならない。
延延とエンドレスに動物悲劇は続くだろう。
なにしろ「ペットを求める人」が次から次へと登場するのだ。
その中で真に愛情深く終生飼養する飼主は少ないのだ。
だからこそ「根本」を考えなくてはならないと思うのだ。
 
まず人も世間も社会も、動物に対する尊厳意識が著しく低い。
人も世間も社会も、「所詮は動物のこと!」程度に思っている。
「所詮は動物のこと!」ならば、飼養放棄も虐待も平気だろう。
そういう意識だから飼養放棄も虐待も全く不思議では無いのだ。
人人は「所詮は動物のこと!」だと思っているから、
だから「動物尊厳」など低次元の幼稚話だと思っている。
低次元の幼稚話だと思っているから、まともに聞こうとはしない。
「そんな話を聞く暇は無いんだ!」というのが人人の本音だろう。
要するに動物尊厳など、本音では「どうでもいいこと!」なのである。
大多数の人人が「どうでもいいこと!」だと思っているなら、
世の中の動きは「そういう方向」に向いたままとなる。
世の中の動きは、意識の方向に進んでいくのである。
つまり飼養放棄や虐待を防げるわけが無いのである。
だが大多数の人人の意識が変われば、
世の中の動きは、その方向に変化していく。
人人の意識進化が動物に対する非道を防いでいく。
だからそれが「どうでもいいこと!」では無いことを、
それは「低次元の幼稚話!」では無いことを、
それは人間の根本に関わる重大問題であることを、
それを世の中に訴えていかなければならないのだ。
動物尊厳への意識は、本来ならば当然のことなのだ。
当然のことなのに、あまりに無視されてきたのだ。
同じ地球の命に対して傲慢支配を続けることが、
それがどれほど宇宙摂理に背理しているかを、
それをあまりに人間は知らなさ過ぎるのだ。
知らなさ過ぎるから、知ってもらわなくてはならないのだ。
異種の命の尊厳を無視し続けると、どういうことになるか。
それは人間自身の運命に返ってくる。
そんなことは当たり前の話である。
ちょっと考えれば誰でも分かるはずである。
人間が全く人間だけの都合で生きれば、
それに対して必ず回答が示されることになるのだ。
 
これまでは「動物管理思想」の視座で動物愛護は語られてきた。
動物側の立場で語る発言は、管理思想側から非難の標的にされた。
だが管理思想で語り続けても、世間の動物尊厳意識は進化しない。
なぜなら管理思想は、動物尊厳自体が目的では無いからである。
そもそもの目的は「快適な人間社会を成すための動物管理」なのだ。
だからどれほど管理思想的発想で世間を啓発しようとしても、
啓発どころか世間は「人間主役意識」を増大させるばかりだろう。
それでは一向に根本的な解決には向かわないのである。
これは動物偏愛偏重主義を奨励する話では無い。
偏愛偏重の意味では無く、尊厳の領域の話なのだ。
偏愛偏重と尊厳思想は、全く別次元の話なのだ。
もし人人が動物の真情と尊厳を理解できたとしても、
それが動物偏愛偏重社会をもたらすことは無いのだ。
それどころか慈愛に満ちた真に豊かな社会になるだろう。
そして人間同士の争いも格段に減っていくことだろう。
なぜなら異種の命に尊厳を見れるならば、
当然ながら人間同士にも尊厳を見ることとなるからだ。
だがこのシンプルな真理に背を向ける人人も多いようだ。
どこまでも人間至上感覚の人人は動物尊厳を認めない。
それを動物偏愛偏重のことだと思い込んでいるのである。
そういう思い込みをする人人が多ければ、
異種の命に対する社会意識の進化は妨げられるだろう。
だがそういう思い込みの人人は、
そういう思い込みが自らの願いとは裏腹に、
人間にとって真逆の結末を招くことを知るべきだろう。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2013:09:23 ≫