<<全体像との対話>>
この森の夏は、いつも通りに一瞬に過ぎた。
一瞬に過ぎたが、まだ木木に緑は残っている。
この木木の緑はもうすぐ、懐かしい思い出となる。
緑世界は、まるで遠い昔の思い出の如くになるのだ。
緑が消えて荒涼景色となり、そして白銀景色に変わるのだ。
その全ての景色が、この森の景色だ。
そのどれもが、この森の姿なのだ。
それぞれの姿の奥には別の姿が重なっている。
それぞれの姿の後ろに全ての姿が映っている。
木木の緑を見る時も、白銀景色が見える。
白銀景色を見る時も、木木の緑が見える。
いつでも、この森の全体像が重なって見えるのだ。
だからこそ、緑の意味を感じる。
だからこそ、白銀の意味を感じる。
全体像の中の緑を感じ、全体像の中の白銀を感じ、
そしてこの森の真意を感じていく。
たとえば犬達と対話していく時も全く同じだ。
いつもその犬の全体像を忘れずに対話する。
その瞬間の表現の背後の全体像を忘れてはならないのだ。
その瞬間の表現を見ると同時に全体像を重ねるのである。
その全体像があっての、その瞬間の表現なのである。
その全体像によって、その表現の意味は全く変わるのだ。
だからその全体像を、どれだけ深く認識できるかが問題だ。
本気の直感と直観で一瞬一瞬を見抜く習慣を続けていく。
そしてそれを本気の集中力で統合する習慣を続けていく。
そうするとだんだん、真の全体像が見えるようになる。
全体像が見えれば、その瞬間の表現の真意が分かる。
その表現の真意が分かれば犬と暮らすことはできるが、
真意が分からなければ犬と暮らすことなどできない。
それは暮らすのではなく「飼育する」に過ぎない。

2013年9月8日。雨上がりの森。

2013年2月16日。極寒の森の粉雪。これは猪のトレイル。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2013:09:12 ≫