<<進化序章>>
前記事で「精神進化」を書いたが、
進化的萌芽は諸外国で芽生え始めてきたようだ。
「手段を選ばない」ことの野蛮さに気づき始めたようだ。
欲求を満たすために「手段を選ばない」ということが、
それがどれほど人道から外れているかに気づき始めたようだ。
たとえその対象が「動物」であろうとも、
「手段を選ばない」ことは残酷極まることだと気づき始めたようだ。
そういう意識の萌芽が、海外の諸外国で見られるようになった。
「いくらなんでも、それは酷いだろう!!」という意識が、
だんだん多くの人人に芽生え始めてきたようである。
物事の根本は、どこまでもシンプルなのだ。
「いくらなんでも!!」というシンプルな同情心が、
それが多くの人人に芽生え始めれば、
やがて世の中は劇的に変わっていくのである。
同情というものを誤解して解釈する人も多いようだが、
同情というものは想像以上の力を発揮するのである。
たとえば言動が冷酷へとエスカレートするのも防ぐはずだ。
たとえば行動が残酷へとエスカレートするのも防ぐはずだ。
それは「ある一線」を越えないための防波堤になるのである。
同情心あればこそ、一線を越えないで「手段を選ぶ」のだ。
それは慈悲への最初の第一歩とも呼べるものだと思う。
海外では動物に対する姿勢が変わり始めているようだ。
少しづつ少しづつ、人人の意識が変わり始めているようだ。
今のところは、とくに欧米でそれが進んでいるようだ。
たとえば「毛皮生産過程」「動物実験」「家畜飼育環境」などで、
諸外国の社会の意識が徐徐に変わってきたようである。
世界的大企業もまた、動物に対する姿勢を変えてきているようだ。
これはひとえに、海外の動物愛護家たちの長年の努力の賜物だろう。
日本では、そういう人人を「カルト!」と非難することが多いようだが、
「そういう人人」の努力によって、ようやく変わってきたのである。
ようやくやっと諸外国の社会の意識が変わってきたのである。
ところで大企業というものは、営利団体である。
営利団体というものが「動物への配慮」を考えるということは、
それは想像以上に凄いことなのである。
一人や二人で考えたことでは無いのである。
どこかの個人の個人的感情で決めたことでは無いのである。
どこかの慈善団体や思想団体が決めたことでは無いのである。
その企業で営利を追求する様様な人人が、
とことん議論を交わした末に決めたことなのである。
そうしてついに「少しは動物の境遇に配慮しよう!」となったのだ。
「世間体を考えて」という見方もあるだろうが、
たとえそうであったとしても、結果としては素晴らしいことだ。
そもそも「世間体」というならば、
つまり「世間がそういう意識になってきた」ということなのだ。
つまり「世間が動物への配慮を願っている」ということなのだ。
もしそうならば、それはなおさら凄いことではなかろうか。
この日本の世間も、そういう意識に進化して欲しいと願う。
それを心から願い、ただ一心に祈り続けている。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2013:04:14 ≫