<<精神進化>>
 
毎日の日課として、山で野性禅に入る。
仕事と犬たちの全ての世話が終わった後で、
夜の山で静座して黙想に入る。
白銀の冬期には立ったままで黙想に入る。
いつも想うのは、この地球のことである。
この地球のことを知ることは、本当に難しい。
まさしく「仏でなければ分からない」ことだと思う。
だがそれでも諦めずに、夜の山の黙想を続けてきた。
いったい何年、この日課を続けてきただろう。
それでも年月を重ねるごとに、黙想は深くなってきた。
少しずつ少しずつ、かすかに見え始めてきた。
というよりも、何者かにインスパイアされる。
インスパイアされてインスピレーションが起こるのだ。
とうてい自分では知るはずも無いことを、
なぜか自分が感じることができるのだ。
それはまったく不思議なことである。
 
この地球上で、ただ生き延びれば、それでいいのか?
ただ人類存続だけを考えていれば、それでいいのか?
ただ存在していくことが、それが進化の道だというのか?
そもそも、この世に「永続」などというものは無い。
この世の全ては、刻刻と変化し、刻刻と姿を変える。
「種:syu」というものも、そうだろう。
種というものも、その摂理から免れない。
あらゆる種は、やがて姿を変えていく。
姿が変われば、別の種に見えるだろう。
元の種は消滅したように見えるだろう。
そのように種は、どんどん変わっていく。
姿が変わっていくだけではない。
その「精神」も変わっていくだろう。
むしろ「精神」の変化の方が劇的だと思う。
そもそも精神の進化こそが「進化」なのだと思う。
この地球の全ての種は、進化の途上にあると感じる。
目には見えなくとも、その内側は刻刻と変わっているだろう。
そしてこれからも、どんどん刻刻と変わっていくだろう。
 
人間は「今の人間」のままで居たいと思うだろう。
だが今の人間のままで居るということは、
この世の摂理を拒否するということだろう。
そして「進化を拒否する」ということだろう。
進化を拒否し摂理を拒否して生きていけるのか?
いくらなんでも、それは無理な話だろう。
この大宇宙で、そんな身勝手な話は通用しない。
人間の使命は、「進化する」ことなのだ。
「精神」が進化することが、人間の使命なのだ。
だがその「精神の進化」に、どれだけ意識を向けているか?
世界中の人間の多くが、未だに精神の進化に無関心である。
もしいつまでも無関心のままならば、
「大宇宙の摂理」が動き出すことになる。
すでに動き出しているような気もするが。
これは人間だけに課せられた使命ではない。
あらゆる種に課せられた使命である。
その状況の中で、どのように学んでいくか?
その特殊な状況の中で、何を学んでいくか?
あらゆる種が、その学びを課せられている。
もし傲慢な精神に侵されていれば、摂理が動き出す。
その傲慢な精神は、やがて木端微塵に打ち砕かれる。
大宇宙の摂理は大愛で命を見守っているが、
しかし厳しい時には途方もなく厳しいのである。
とくに「傲慢な精神」に対しては厳しいのである。
あるいは強欲な精神や残酷な精神に対して厳しい。
あるいは邪狂の攻撃精神や支配精神に対して厳しい。
今は気づかずとも、いつかそれを思い知ることとなる。
 
私は非常に多くの犬たちを家族にして生きてきた。
家族の犬たちと運命を共にして一緒に生きてきた。
そこで実感したことは、犬たちの中に「天使」がいるということだ。
犬たちはそれぞれに、素晴らしい純情に満ち満ちている。
あらゆる犬たちが、きらめく純情を秘めている。
だがその中でも、まさしく「天使の犬」がいるのである。
私はそういう犬を、この目で見てきた。
そうであって欲しい!という願望ではなく、
現実に実際に「天使の犬」がいたのである。
その犬は、部屋に訪れる山ネズミとも友達だった。
もちろん猫とも、そして狼犬とも友達だった。
あるいは野生のキツネと友達の犬もいた。
そして今は、野生のイノシシと友達の犬たちがいる。
その犬たちは、もちろんキツネとも友達である。
「捕食の必要」から解放されたとき、
その世界から解放されたとき、
まさしく天使に姿を変える犬は多いのである。
どれほど天使かは、深い絆の目で見れば分かる。
その犬と深い絆で結ばれていれば、
どれほど天使かが分かるのである。
ところが人間はどうであろうか?
食が満たされてさえ、なおも強欲の姿を見せる。
「もっと旨い物は無いか?」と、獲物を探し求めている。
「満足」を知らずに、いつも欲求を募らせている。
いつも欲求不満状態で、獲物を狙い続けている。
そこに精神進化は、はたしてあるのだろうか?
人類は精神進化について、どう考えているのだろうか?
 
どれほど科学が発展したとしても、
精神の進化が伴わなければ何の意味も無い。
科学は摂理に背理した方向に暴走するだけである。
精神の進化があってこそ、科学は意味を持つのである。
精神の進化があってこそ、科学は真価を発揮するのである。
だから人類は科学への情熱以上に、
精神進化というものに情熱を持つべきだと思う。
これは「ご利益を期待した信仰」の話とは全く違う。
そういう下心の話ではなく、「根本」の話である。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2013:04:14 ≫