<<動物尊厳>>
 
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人間に尊厳があるように、動物にも尊厳がある。
それが大宇宙の摂理であり大宇宙の真相だ。
それを無視すれば、どういうことになるか??
どういうことになるかは、
やがていつか自分自身で思い知ることとなる。
大宇宙の摂理に背理すれば、課題の旅が始まるのだ。
摂理を知るまで延延と際限なく課題の旅は終らないのだ。
その者が自分自身で知るまで、それは終らないのである。
大宇宙の摂理の根本は「大慈悲」である。
その根本から遠ざかるほど、その課題は厳しくなる。
今生を終えて次の旅の際には、さらに厳しくなるのだ。
 
日本では未だに動物の尊厳が理解されていない。
動物愛護を標榜する人は多いようだが、
動物の真の尊厳を実感している人は少ないようだ。
動物愛護というものは、あらゆる動物に対してである。
犬猫という身近な動物だけでなく、あらゆる動物に対してだ。
ところが日本では犬猫以外の動物の尊厳には関心が薄い。
あるいは犬猫以外の動物のことが理解できないようだ。
本来ならば、もし犬猫を理解できるならば、
あらゆる動物のことを理解できるはずなのだが。
だからつまり、犬猫のことも理解できていないということだ。
本人は理解しているつもりでも、理解できていないのだ。
日本では主に犬猫の里親探しのことを動物愛護と呼んでいるが、
それは動物愛護の中の、ごくごく一部分に過ぎないものである。
本来ならばペット動物への愛も、
家畜動物への愛も、野生動物への愛も、
それらは全く同じ根本から湧き出る全く同じ愛である。
だが日本では、それがどうしても理解されないようだ。
それらを全く「別のもの」として考える人が多過ぎるようだ。
 
確かに犬猫保護活動の人たちの努力は素晴らしいと思う。
それを「行動する」という努力には、ただただ敬服する。
あまりにも非情な飼主が多いから、
あまりにも悲劇の犬猫が多いから、
それを少しでも救おうとする熱意には敬服する。
しかし保護活動の人の中には、
「人間しか彼らを救えないのだから!」
というような勘違い発言をする人が意外に多い。
それはあまりにも高慢な考え方だと思う。
もともとの大元を考えてみればいい。
なんで悲劇の犬猫がこんなにも多いのかを。
それを本当に実感していれば、
「人間しか彼らを救えないのだから!」
などという高慢な発想は湧かないはずである。
ほんとうは救うのではなくて懺悔のはずだ。
人間の傲慢な身勝手が動物を苦しめてきたのだ。
 
あるいは「自分の身の程を考えて!」と言う人も多い。
多くの人が「自分の身の丈の範囲で活動しろ!」と言う。
「たくさん保護し過ぎて社会に迷惑を掛るな!」と言う。
確かに受入れ能力を超えてしまえば、
保護活動家も保護犬たちも共倒れになるだろう。
「理屈」から言えば、それはもっともな話である。
だが最初からそれを普通にできるのならば、
最初から「犬を選んで保護する」ことができるのならば、
それがクールにできるならば、誰も苦労しないだろう。
もしそれができるならば、誰だってそうしたいだろう。
誰だって限界を超えた苦労など、したくはないだろう。
だが、「選ぶこと」のできない人もいる。
救う命と救わない命を選択することが、
それがどうしてもできない人もいる。
その人の心境を責められるだろうか。
理屈から言えば無謀だとしても、責められるだろうか。
ところがそういう人を責める風潮が強い。
驚くことに、同じ保護家だというのに責める人も多い。
「身の程を知らないから、こんなことになるんだ!」と責める。
同じ保護家ならば、崩壊の前に協力すべきだと思うのだが。
ところが崩壊を眺めた挙句に、事後に責め立てて非難する。
「選ぶこと」が平然とできる人は、
確かに「身の丈の範囲」をキープできるだろう。
そして誰からも非難されずに、誉め称えられるだろう。
「社会常識を心得た立派な動物愛護家」だと尊敬されるだろう。
自称「良識派」の保護活動家たちは、
よく「社会常識」という言葉を使いたがる。
自分は常識人だと強調したいようである。
だが、よくよく考えてみるべきである。
今の世間の社会常識というものが、
それが悲劇の犬猫を生み出す元凶となっているのだ。
今の世間の「動物に対する常識」が非常識だから、
だから次次と延延と犬猫が不幸になるのである。
その根本を分かっていない人が多過ぎるのである。
だからもし「社会常識」を口にするならば、
この世間の社会常識を変えていかなければならない。
それを変えていかなければ、犬猫の悲劇はこのまま続くのだ。
動物に対する社会常識を変えていくことが、
それが動物愛護の根本のはずだが、
それを考えずに「社会常識!」を口にする人が多いのだ。
それはなぜか??なぜ考えないのか??
それはその人が基本的に人間特権主義だからだろう。
自分では気づかなくとも、実は人間特権主義なのである。
「動物に対して非常識な社会」に対して本気で声を上げれば、
声を上げた人は「反社会的人間」だと認識されるだろう。
そもそも今の日本では未だに「動物愛護」というものを、
反社会的なカルト思想のように見る人が大多数なのだ。
大多数ということは、それが今の世間だということだ。
「里親探し」のレベルなら、カルトには見られないだろうが、
だがそれ以上の領域に踏み込めば、途端に警戒されるのだ。
そういう世間の「常識」に対して挑むことが、
それが本来の動物愛護の姿ではないだろうか。
それくらいの覚悟がなければ、
とうてい「常識」など変えられないだろう。
日本の犬猫保護の草分けの人である藤田千恵子さんは言った。
保護してすぐに死んでしまった犬への、悲痛極まる叫びであった。
藤田さんに抱かれたまま、ついにその犬は力尽きたのであった。
「いいかい、もうこんな薄情な世の中に生まれてくるんじゃないよ!」
藤田さんがどれほど艱難辛苦の保護人生だったか。
どれほど純粋に悲劇の命を見つめてきたか。
どれほど世間から白眼視されてきたか。
その藤田さんの、魂の叫びだったのである。
藤田さんは動物に薄情な世間をとことん知ったのだ。
だから藤田さんは、里親など募らなかった。
里親の非情な心変わりを、とことん見てきたからだ。
だから藤田さんは動物愛護団体からは理解されなかった。
「社会常識」を標榜する人人からは理解されなかったのだ。
 
「保護は自分の身の丈の範囲で!」ということは、
「救えない犬猫が存在する」ということである。
むしろ救えない犬猫の方が多いだろう。
もうこれは、厳然と事実なのである。
救えない命は、厳然と存在するのである。
そもそも「保護は身の丈で!」ということは、
「救えない命が存在する」という意味なのである。
そこをよくよく考えるべきだと思う。
死にゆく命たちのことを考えるべきだと思う。
身の丈で保護することは素晴らしいことだと思うが、
保護と同時に、死にゆく命たちを考えるべきだと思う。
≪≪死にゆくならば、せめて安らかに死なせてあげたい≫≫
≪≪死ぬまでの何日かを、せめて安らかに過ごさせてあげたい≫≫
このことについて、私はいつも考えてきた。
そして私は全身全霊で祈りを捧げてきた。
その祈りは、死にゆく命たちに届いているだろう。
それを信じて、渾身の祈りを捧げてきた。
「どうせ死ぬのだから」と考える人もいるだろう。
「死んだら終わりなのだから」と考える人もいるだろう。
「だから死に方なんか、どうでもいいことだ」と言う人もいる。
「尊厳死であろうが苦死であろうが、所詮は同じなんだよ!」
「苦死であろうが尊厳死であろうが、結果は同じなんだよ!」
犬猫保護家の中にも、こういう考え方の人間はいるのである。
そういう人間は、死にゆく命の死際のことを想像できないのだ。
自分自身が死ぬ時に、その時ようやく分かるだろうが。
悲劇は保健所で死にゆく命だけではない。
たとえ保健所で死ななくとも、
残酷非情な飼主の元で、生き地獄の末に死ぬ命もある。
生き地獄の末に死ぬ命は、相当に多いだろう。
だから悲劇は「処分の頭数」だけでは語れないのだ。
問題はもっと根が深く、もっと難問なのである。
表面には出ない悲劇を想うと、胸が張り裂けそうになる。
残酷非情な飼主の、悪魔のような顔が見えることがある。
それは大宇宙の摂理から最も懸け離れた者の顔である。
 
私の小屋に一匹の山ネズミが訪れる。
その子は、何も悪さをしない。
ただ小屋の中で「遊ぶ」だけである。
まさにそれは、ささやかな「遊び」なのである。
そしてたまに、私の顔をじっと見つめるのだ。
その子は、この森の中で自活している。
私に食料を依存している訳ではないのだ。
たまにその子は、森でお気に入りを見つけると、
この小屋の中に持ってくる。私へのお土産だろうか。
その山ネズミは、私などよりはるかに、
大自然のことを知っている。
私はその子から、大自然の話を聴くのだ。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2013:03:30 ≫