<< 犬 と 死 >>
 
大勢の犬たちと生きてきた。
そして犬たちの死を看取ってきた。
彼らの今生の最期の姿を、
この目と心に焼き付けてきた。
死に臨む彼らの勇姿を忘れない。
犬は、人間よりも「死」を知っている。
死を知っているということは、
「生」を知っているということである。
なぜ人間よりも知っているかというと、
未だに人間よりも大自然の近くにいるからだ。
たとえ街で生まれ育ったとしても、
その精神が大自然の近くにいるということだ。
どんな小さな愛玩犬でも、それは同じである。
 
もしそれが寿命の死の場合には、
何日か前から絶食に入ることが多い。
死を迎えるための絶食である。
徐徐に肉体の機能を止めていくのだ。
そして犬たちは禅境地に入る。
深く静かに己の死と向かい合う。
彼らは深く静かに死と向き合いたいのだ。
それが重大なことだと知っているのだ。
だから私は彼らの尊い意志を尊重した。
できる限りの看護は続けたが、
できる限りに静かに見守った。
この自分の気持は、悲しみに満ち満ちている。
我が子の生死の瀬戸際なのだ。
叫びたいほどに大きな悲しみだ。
だが歯を食い縛って悲しみを堪えた。
彼らの命の究極を見届けるために。
そして彼らの命の究極を見届けてきた。
 
老境になれば、肉体は老衰する。
もし検診すれば、何らかの症状が発見されるだろう。
何らかの症状によって死に向かっていくとも言える。
「完全な老衰」のみで死に向かえるならば理想だろうが、
完全な老衰死は、なかなか難しいことかも知れない。
多くの場合は「何らかの症状」が、
その命を死に導く役目をしているのだと思う。
もしそうなれば、それが野生状態ならば、
その命は迷うことなく絶食に入るはずだ。
いささかも迷うことなく絶食に入るはずだ。
そして今生の命の灯を消していくだろう。
肉体を纏った今生の命には寿命があるのだ。
だが「寿命がある」ということを、
それを忘れている人も多いような気がする。
その命の肉体は死を迎えようとしているのに、
その肉体は寿命を知っているというのに、
周囲は何が何でも生きさせようと躍起になる。
無理やりに延命させようと騒騒しく躍起になる。
そういうケースも多いように感じるのだ。
≪≪もう、静かに逝かせてください・・・≫≫
そういう心境の命たちも多いように感じるのだ。
「死ぬに死ねない状態」というのは、苦しいはずだ。
それは相当に苦しいことだと思うのだ。
もう迎えは来ているというのに、
たとえば飼主の気持の都合で逝かせてもらえない。
こういうケースは多いように感じるのだ。
それは飼主自身が別離を怖れているからだと思う。
そしておそらく飼主自身が死というものを怖れているから、
「その命に迎えが来ている」ことを否定したいのだろう。
だが犬たちは、人間のように寿命を怖れてはいない。
己の死期を覚れば、深く静かに受け止める。
誰にも頼らず、己の全てで死と向き合う。
その勇気を見届けることが飼主の使命だと思う。
いよいよ寿命尽きるとき、
愛犬がどのように死と向き合っているか、
どのように禅境地に入っていくか、
その崇高な覚悟の姿を見届けることが、
それが飼主の使命だと思うのだ。
 
それが「寿命」であるかどうかは、
その犬と対話すれば分かることだ。
それが寿命であるかどうかを、
なぜに第三者に聞かねばならないのだ。
他の誰よりも飼主が分かるはずなのに。
第三者に聞かねば分からないとしたら、
それは犬にとって最も寂しいことだろう。
真の対話は、だから最も重大なのだ。
その犬と真に対話できれば、
それが寿命であるかどうかが分かる。
その犬が死を迎えようとしていることが、
その犬が今生と別れる覚悟でいることが、
それがありありと分かるはずなのだ。
これは「寿命」に限っての話ではない。
それがどうにもならないダメージだった場合には、
犬はもはや今生と別れる覚悟に入る。
犬は「今生」の意味を知っているからだ。
「肉体を纏った今生で生きる意味」を知っているのだ。
どうにもならないダメージは、どうにもならないのである。
無理を押し通そうとすれば、過酷な反動が待ち受けるのだ。
犬たちは、そのことも知っているのである。
だが人間は人間感覚で犬を見てしまうから、
自分たちは「今生の生存」に執着しているから、
だから犬たちの覚悟と決意が理解できないようだ。
それは犬にとって、とても悲しいことである。
 
死が近づくと、彼らの傍らに仏が寄り添う。
それはほんとうに、「お迎え」なのである。
仏は彼らの健気な勇気を見守っている。
「よくぞ頑張ったね・・・」
「よくぞ今生を精一杯に生きたね・・・」
仏はそのように語りかけているようだ。
犬たちは慈悲に満ち満ちた言葉を聴いている。
犬たちは感無量で聴いている。
そして最後の息で、今生に別れを告げる。
犬たちの魂は仏に抱かれて天に旅立つ。
それはまぎれもなく、旅立ちなのである。
 
今の我家の最長老は、
15歳半を過ぎた「悍:kan」である。
悍は見事に、この山の極寒の冬を乗り越えた。
この冬も氷点下20度を超える日が続いたが、
超高齢の悍は見事に逞しく乗り越えた。
だがもちろん、日ごとに老境が深まっている。
それは避けられないことなのだ。
この自分も、まさに我ことのように寂しい。
どうにもならないほどに寂しい。
だが寂しさを堪えて彼の姿を見つめる。
最後の最後まで、彼の勇姿を見つめ続けるのだ。
毎日毎日、悍を抱き締める。
彼の命と私の命は一心同体だ。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2013:03:16 ≫