<< 唯 心 界 >>
 
***応観法界性 一切従心転***
 
これはたとえば唯識思想の話とは違う。
現象は心が映し出す幻影だという理屈とは違う。
現象は現象なのであり、それは事実である。
ただしそれは「空:kuu」としての現象である。
色は即ち空であり、空だからこそ色である。
自性は即ち無自性であり、無自性だからこそ自性である。
この世の全ては、法界縁起の中で生まれたものである。
法界縁起なしには、全ての存在は存在できない。
だが法界縁起の中で、現象は厳然と現象である。
その現象を無理やり否定しようと考えると支離滅裂になる。
そして自分の生活も人生も矛盾だらけになるだろう。
「無!自分は無い!」などと考える人もいるが、
おそらくその人も飯を食うだろう。
なぜ飯を食うのか?腹が減るからだろう。
もし本当に「自分は無!」だとしたら、
腹が減っていることも錯覚に過ぎないはずだ。
それは錯覚なのだから、飯など食わなくてもいいはずだ。
だがおそらくその人も、飯を食っているだろう。
すでにそこで矛盾が起こっているのである。
自己を無理やり否定しても、何の解決にもならない。
その人は法界縁起の中で、厳然とその人なのだ。
全宇宙で唯一無二の「その人」である。
その人の個性は、全宇宙で唯一無二である。
しかしその人は、法界縁起によって存在している。
この法界縁起を深く理解できれば、
自分に秘められた真の個性が見えてくるはずだ。
その真の個性の尊さを知ることになるはずだ。
そしてこの法界縁起を深く理解できれば、
あらゆる種の命の尊厳が同等に尊いことを知るはずだ。
そして異種の命たちを見る目が劇的に変わるはずだ。
 
そして世界の動きは、心が造っていく。
世界の現象は、世界の人人の心の反映である。
世界の人人の心が、世界の流れを生んでいく。
なぜなら、心は行動の生みの親だからだ。
心の思いは、いつか必ず行動になっていくのだ。
そして人人の行動は、新たな情勢を生んでいく。
世界の動きは、どこまでも「心ひとつ」なのである。
ここで言う心とは、本音の本心である。
自分の本音の本心を、人人は知っている。
「自分の心が分からない」と嘆く人もいるようだが、
それは偽りの言葉だと思う。
それは自分を自分で偽るための自己暗示だろう。
人は自分の本当の内心を知っているはずなのだ。
いくら心を装っても、いくら虚勢を張っても、
人は自分の実際の内心を知っているのである。
その実際の内心の本音の本心が、
それこそがその人の行動の原動力なのだ。
その人しか知らない秘密の内心が原動力なのだ。
自分では気づかなくても、行動に反映していく。
たとえばちょっとした動きにも、確実に反映する。
おそろしいほどに、すべてが反映していく。
このことをもし真剣に受け止めたなら、
思考の姿勢が変わっていくはずだ。
思考の姿勢が変わっていけば、
だんだん内心の傾向も変わっていくだろう。
そうすると、すべてが変わっていく。
人人の本音の本心が変わっていくと、
世の中の情勢も劇的に変わっていくだろう。
世界の情勢は、人人の「心ひとつ」で変わるのだ。
逆に言えば、本心が変わらなければ何も変わらない。
ちょっと変わったように見えても、すぐに逆戻りする。
装いの装心では、世の中は変わっていかないのだ。
だから誰もが、自分の心を見つめてみるべきだ。
自分の内心を、真正面から見つめてみるべきだ。
実は知っているのに知らん振りしているその内心を、
堂堂と真正面から見つめてみるべきだと思う。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2013:03:15 ≫