<<命の授業>>
先ほど、犬たちの夜の世話と山行を終えた。
「今日は暖かいな」と思ったが、夜8時で氷点下8度だった。
標高の低い地域ならば、これは充分に真冬の寒気だろう。
未明時刻から活動しているので、いささか疲れているが、
今日はこの記事を書き終えることにする。
「命の尊さ」を教える授業が注目されているようだ。
「食」を通して命の尊さを実感させようとするらしい。
たとえばクラスで子豚を育てて、
育てた若豚を処理場行きのトラックに乗せて見送り、
たとえば生徒が鶏の雛を育てて、
育てた若鶏を生徒が殺して解体して鳥鍋で食す。
そうして「命の尊さ」を教えていくという。
??????????
??????????
彼ら教師の言いたいことは、
「人間は他の命を戴かないと生きていけないんだ」
「そのことを目を逸らさずに正視するんだ」
「可哀そう!と思うのは偽善なんだ」
ということのようである。
それでどうやって「命の尊さ」を学ぶというのか。
おそらく生徒たちも「???」の気持が大きいだろう。
分かったような分からないような、妙な気分だろう。
しかし自分の行為を自分に納得させるしかないだろう。
育てた若鶏を殺して食した女生徒の手記を読んだ。
殺すのに手間どって苦痛を味あわせたことを悔やんでいた。
最初に若鶏の頭を叩いてから首を切る手法のようだが、
それがなかなか上手くいかないので、
何度も頭を叩いて、何度も首をナイフで引いたようだ。
若鶏に余計な苦痛と恐怖を味あわせてしまったことを、
それを非常に悔やんでいたのであった。
それはごくごく自然な感情だろう。
「せめて・・」の感情こそが、自然な感情だろう。
「せめて・・」の感情は、想像以上に重大至極なのだ。
そして女生徒は、あることを観察していた。
若鶏たちは、仲間が一羽づつ殺されていくのを、
じっと静かに見ていたという。
騒ぎもせず、泣き喚くこともせず、静かに見ていたという。
「自分だったら泣き叫ぶだろう」と女生徒は書いている。
「若鶏は静かに自分の死を覚悟している」と書いている。
その覚悟が凄いなあと、そのように書いている。
若鶏の崇高な覚悟を、女生徒は感じたようである。
おそらく教師は授業で生徒たちに、
若鶏の覚悟の話などは、しなかったと思うが。
若鶏たちの心境の話などは、しなかったと思うが。
しかしそれこそが本来の「ハイライト」だろう。
しかしそれこそが「命の尊さの核心」だろう。
育てた若鶏たちの心境を話さずして、
育てた若鶏の崇高な覚悟を話さずして、
その授業のどこに「教え」があるというのか。
子豚も雛鳥も、周りの人間たちを信じた。
育ててくれた人間を家族だと思った。
だからこそ心を開き心を許した。
いつもその人のことを想っていた。
彼らは人間の想像を超えて純情に満ちているのだ。
それは人間の想像よりもはるかに一途なのである。
だがある日、思いもよらぬことが起こった。
それがどういうことか、最初は分からなかった。
そんなことは、とうてい信じられなかったのである。
だがそれが事実であることを覚った。
悲しかった。声さえ出ないほどに悲しかった。
だが彼らはその悲しみを胸に深く沈め、
育ててくれた者たちから殺されることを覚悟した。
己の死を、己の勇気の全てを振り絞って覚悟した。
この光景を第三者の目で客観視すれば、
これ以上無いほどの「裏切り」である。
ちょっとやそっとの裏切りでは無い。
途方も無い裏切りなのである。
だが子豚も雛鳥も、恨みも憎みもしなかった。
その過酷な運命を、己の勇気の全てで受け止めた。
これほど凄いことが、どこにあろうか。
人間社会で、これほど凄い覚悟を見れるのか??
おそらく彼ら教師たちは、
生物学的見地の生命の解説をしたのち、
「それでも生きるために残酷になれ!」
と発破をかけているようである。
「残酷を否定したら生きていけないんだ!」
と檄を飛ばしているようである。
一人の教師は世の「自殺者の多さ」を憂いて、
それに対する予防策の意味も含めて、
それでこういう授業を続けていると言っている。
「命の尊さを知ることによって自殺を防ぐ」と言うが、
こういう授業とその理屈が、いったいどこで繋がるのか。
実際には結局のところ、
「精神的にタフになれ!」と言いたいだけだと思うのだが。
タフになれば少しは自殺を防げるかも知れないが、
タフの意味合いが少少ずれているように思うのだが。
彼ら教師たちは「理屈」を飾り立てているが、
実際には結局のところ、
「人間には異種の命を食う権利がある!」
「食うために躊躇しないで平気になれ!」
「なによりも自分の命が大事なんだよ!」
としか言っていないように感じる。
だとしたら「命の尊さ」などという理屈は的外れだ。
そういう看板は降ろした方がいいと思うのだが。
もし「命」のことを生徒に教えるのなら、
「自分もまた食われる覚悟を持つ」ことを話すべきだ。
自分もその覚悟を持つことで、
それで初めて「命」というものが分かりかけるのだ。
自分だけは食う側の立場だと思い込むことが、
自分だけは支配する立場だと思い込むことが、
自分だけは特別な特権階級だと思い込むことが、
それが最も命を分からなくさせていることなのだ。
野生界の猛獣たちも、最後は食われるのである。
そして彼らは、それを知っているのである。
そしてそれを覚悟して生きているのである。
野生界に特権階級など存在しないのである。
彼ら教師たちは気軽に「感謝!」などと講じているが、
本物の感謝というものを全く生徒に教えていない。
「人間は特権階級である!」と説いているだけである。
「育てた命を自分で殺すという覚悟!」などと言うが、
それを「覚悟」だと思う時点で、まことに残念な思考である。
それはどこまでいっても覚悟とは懸け離れたものである。
そして殺される若鶏の崇高な覚悟を、余りにも愚弄している。
もし若鶏の崇高な覚悟を本当に実感できたなら、
「殺す覚悟」などという戯言は絶対に口から出ないだろう。
あるいは「感謝!」というならば、
人間社会に食われゆく家畜たちの境遇を、
延延と食われゆく家畜たちの生涯を、
その境遇と生涯を、深く深く考えてみるべきだ。
それが無ければ「感謝」などという言葉は虚言に終わる。
因みに自分は非肉食者だ。
自分の生活は、このブログに書いてある通りだが、
このような生活を長年に亘って続けてきたが、
非肉食で何の不都合も起こらない。
極寒の山で未明時刻から深夜まで延延と活動するが、
たとえば風邪で寝込んだことなど一度も無い。
零下20度の白銀の森で活動する毎日でも、
肉など食わずとも、何の支障も起こらない。
それだけではない。非肉食の上に絶食も行なう。
日日の活動を普通に続けながら絶食を行なう。
近頃流行の断食道場などとは話が違うのだ。
それでも身体は何の不調も起こさない。
むしろ同世代の中では体力は強い方だろう。
肉を食わなければ生きていけないなどと、
いったい誰が喧伝しているのか。
生きるためには肉が必要などと、
いったい誰が言い広めているのか。
要は「肉を食いたい!」ということだろう。
「食いたいから食うんだ!」ということだろう。
それならそれで、そう言えばいいのだ。
はっきりそう言えばシンプルに分かり易いのに、
なんとしてでも理屈を付けようとするから、
それで話がおかしくなっていくのだ。
あるいは「植物も同じ命だ!」と講じる人も多いが、
「植物を食うことも動物を食うことも一緒だ!」と言うが、
その言葉を本当に本心で言っているのか??
もし本当に本心で言っているのなら、
その人はもう、野道を歩けなくなるだろう。
芝生の上に座ることもできなくなるだろう。
花瓶の切花を見ることもできなくなるだろう。
人間は実は、動物と植物との違いを、本能で知っているのだ。
本能で知っているからこそ、そこで情動が起こるのだ。
「植物も命だ!」は、当たり前の話である。
それは当然だから、なんの説明も要らない。
もちろん植物も同じく尊い命だが、
だが動物とは異なる感覚で生きている。
その「異なる感覚で生きている」ことを、
人間は本能の奥深くで知っているのである。
「異なる」ということは、優劣の意味では無い。
命には優劣というものは無いのである。
それは優劣ではなく、あくまで感覚領域の話なのだ。
「植物を食うことも動物を食うことも一緒だ!」と言う人は、
それならば実生活でどのように植物に祈りを捧げているのか。
「感謝!」と語るならば、そこには必ず祈りがあるはずだ。
もし本心で植物を祈る人ならば、植物の感性が分かるはずだ。
そしてまた動物たちの感性も強烈に実感できるはずである。
強烈に実感すれば、平然とは肉を食えなくなるはずだ。
もし人が「命の尊さ」を本当に実感できたなら、
その人は「祈りの生活」を送ることになるだろう。
それは自然に、そうなることだろう。
特定の宗教に入信するという意味では無い。
そういうことではなく、
心の深奥から自然と敬虔心が湧きあがるということだ。
思わず、祈らずにはいられなくなる、はずである。
何に対して祈るのか。
命たちに対して祈るだろう。
命たちを本心で祈る時、
おのずとそこに神仏が現われる。
命たちを本心で祈れば神仏が現われるのだ。
祈りとは「神仏がどうの」と考えることではなく、
命への祈りの中に神仏は現われるということだ。
「命の尊さ」を知れば、ついにはそういうことになる。
「ついにはそういうことになる」ことを実体験すれば、
この世がまったく別の姿に見えてくるはずだ。
どんなに自分が苦しい状況でも、
それでも慈悲を目指していくことが、
それが今生の使命であることが分かるはずだ。
どうにもならない時もあるだろうが、
それでも「目指す気持」だけは失ってはならない。
目指す気持を失えば、暗闇世界を彷徨うことになる。
たとえ厳しい状況の最中でも、
それでも目指す気持だけは失ってはならないのだ。
その気持こそが、この世で最も尊いものなのである。
人間は慈悲を知り慈悲を目指すために生まれてきた。
今生の「学び」とは、ただただそれだけである。
そして慈悲に近づくことこそが、
それこそが最も人間の命を強くするのだ。
だからもしも命を強くしたいなら、
慈悲を知り慈悲を目指すことである。
そのことを知らない人が多過ぎるのである。
だが「生きる」ということを、
ひたすら「肉体生存」として考える人人には、
この「学び」の深義など、どうでもいいことだろう。
どうでもいいことだろうが、
そういう人人が増えれば、世の中は必ず荒廃する。
そしてやがて、どうにもならなくなる。
目指さなければ、全てはそこで終わる。
だが目指せば、そこから無限が始まる。
無限に壮大な真のドラマが始まる。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2013:03:10 ≫