**雪山野性禅**
 
狼山の山行日課には野性禅も含まれる。
無雪期には山の地面に坐るが、
雪山では立ったままで野性禅に入る。
立ったままでも野性禅に入ることはできるのだ。
なにしろ零下10度20度なので長時間はできないが、
たとえ短い時間であっても「深く入ること」が大事なのだ。
我が家族の犬たちの野性禅は凄かった
もちろん「狼」の狼禅は言うまでもなく凄かったが、
犬たちもまた甚深の野性禅に入るのだった。
彼らは本当に自然体で野性禅に入ってしまう。
私はいつも彼らのその姿を目に焼き付けてきた。
いつもつくづく、「なんと美しい・・・」と感動してきた。
山の動物を感知している光景とは違うのだ。
動物の気配に反応している場合とは違うのだ。
そうではなくて、これは野性禅の姿なのだ。
「犬と禅」などと発想する人は少ないかも知れない。
動物と禅を結びつける人は居ないかも知れない。
しかし私は、彼らが野性禅に入る姿を見てきた。
そして彼らから、奥深い尊いものを学んできた。
彼らは我が子であると同時に、我が師であったのだ。
「躾」や「芸当」や「競技」に情熱を注ぐ飼主は多いが、
それだけではなく、「本当の彼らの真髄」も知って欲しい。
本当の彼らの真髄は、人人の想像を超えた領域である。
そして犬たちには「禅境の時間」が必要だ。
ただ「楽しい楽しい」だけではなく、
ただそれだけで終わるのではなく、
深静の禅境の時間は必要なのである。
そこで彼らは「心身の調子を整える」のである。
自分自身の深奥の力を充電するのである。
そしてまた大自然の深奥と対話するのである。
そしてもちろんその時には、
飼主もまた禅境地に入るべきである。
飼主の心境が騒騒しいのは最も厳禁である。
騒騒しい心境の飼主の元では、
当然ながら落ち着いて禅境には入れない。
だから本当は犬と暮らしていくには、
飼主もまた野性禅を心掛けるべきである。
「心の躍動」と「心の深静」は必ずセットなのだ。
そのどちらが欠けても調和は得られないのだ。
≪ 写真は確か「1995年」の頃。≫
 
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■南無華厳 狼山道院■
≪ 2013:02:23 ≫