**雪の森の命**
 
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今日も真暗な未明時刻から森を歩いた。
夜明け前の気温は氷点下19度だった。
雪の森の命たちのことを想いながら歩く。
すべてが凍りつくようなこの森で、
命たちは人知れず全霊で生きている。
いったい、どうやって生きているのか。
いったい、どうやって食べているのか。
雪に覆われたこの森の、
いったいどこに食べ物があるというのか。
いったいどうやって寒さに耐えているのか。
たったひとりの動物も多いのだ。
たったひとりで、すべての重圧に耐えている。
たったひとりで飢えに耐え、
たったひとりで寒さに耐え、
たったひとりで死を迎える。
飢えの中で、衰弱の中で、
たったひとりで死を迎えるということ。
彼らはみんな、そうやって死んでいく。
あるいは「母」も孤独である。
たとえば猪の母。たとえば熊の母。
母はたったひとりで子供たちを護る。
世界中に誰ひとりとして援護者はいない。
すべての重圧を、ひとりで一身に背負っている。
どれほど孤独か。どれほど不安か。
その孤独と不安を子供たちには微塵も見せず、
世界中に誰ひとりとして援護者のいない中で、
ただひとりで母は耐え、立ち向かうのである。
どれほどの愛の深さか。どれほどの大きな勇気か。
雪の森を歩いていると、
そういう情景が次次と浮かんでくるのである。
あまりの切なさで胸が苦しくなる。
彼らの凄さに涙があふれてくる。
なんで彼らはこんなにも全身全霊なのか。
彼らを支えるものは、いったいなんなのか。
雪の森を歩いていると、それが見えてくる。
彼らは本能の奥の奥で何かを知っているのだ。
奥の奥で「SOMETHING GREAT」を知っているのだ。
そうでなければ、ああいう生き方などできない。
ただ生存本能だけで、あんな生き方はできないのだ。
極寒の森で彼らを感じていけば、それが分かる。
だから私は華厳の祈りを捧げる。
祈りは必ず彼らの心の深奥に届く。
彼らを支えているものが華厳だからだ。
華厳の祈りとは、そういう意味なのだ。
だから全霊で華厳の祈りを捧げる。
山の動物たちは遠慮しながらも、
我我家族の棲家に訪れる。
ここには彼らの食料など無いのに。
彼らもそれを承知のはずなのに。
それなのに彼らはここを訪れる。
なぜ彼らが来るかと言えば、
彼らは華厳が大好きだからだ。
我我は華厳で結ばれているのだ。
だから全霊で華厳を唱える。
そして彼らと心がひとつになる。
 
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人間社会には「害獣」という言葉がある。
「害獣」という呼称に人人は何の疑問も抱かない。
子供たちも当然の如くに「害獣!」の認識となる。
そして子供たちはその認識で大人になっていく。
人間社会のどこに「学び」の姿勢はあるのか。
いったいどこに「謙虚な学び」があるというのか。
動物たちの全身全霊の生涯。
動物たちの勇気と偉大な愛の使命感。
そういった尊いものを、人間は何ひとつ学ぼうとしない。
学ぶものなど何ひとつ無いと最初から決めつけている。
そして子供たちも、そうやって大人になっていく。
ただ「生態系」を勉強するだけでは、
自然界のことは何も分からずに終わる。
深奥の核心など永遠に知らずに終わる。
ただ生態系を勉強するだけでは、
ほんの表層の現象を知るだけで終わるのだ。
今はまだ人間社会は、そういう状態である。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2013:01:05 ≫