<<殺され方>>
 
もしもどうしても死が避けられない場合。
もはや生き延びるチャンスの全てを失った場合。
どうしても殺されてしまう事態に追い込まれた場合。
あなたは、どのように死にたいか??
あなたは、どのように殺されたいか??
 
命は今生では「肉体」を纏っている。
それは厳然と事実である。
肉体を抜きに今生の生死は語れない。
肉体の苦痛とは、今生では何よりも重大問題である。
人生には、いろんな苦しみがあるが、
しかし最も極苦は、誰にとっても肉体の激痛なのだ。
実際に人間は、ちょっとした怪我でも、
痛み止めを飲んだり、病院に行ったりするではないか。
あるいは手術では、麻酔を使うではないか。
麻酔なしの手術を望む人など、いるだろうか??
人類には凄絶な拷問の歴史があるが、
なぜに拷問などというものが発想されたのか??
肉体の激痛が「最も耐え難い極苦」だからである。
最も耐え難い極苦を与えるために発想されたのだ。
 
もしも死が避けられない場合、
自分ならどのように死にたいか??
もしも殺されることが決定した場合、
自分ならどのように殺されたいか??
動物の尊厳を考える場合には、
そういうことを考えなくてはならない。
それは避けては通れない現実問題なのだ。
生の尊厳とともに死の尊厳も考えなければ、
動物を「生き地獄の極苦」から救うことはできない。
自分は生き地獄の極苦に耐えられるか??
生でもない死でもない生き地獄に囚われても平気か??
はたして自分はそれに耐えられるのか??
ただ「殺す殺さない」だけを延延と議論していても、
動物たちを極苦からは救えないのである。
たとえば自分が怪我をした時に、
自分の身体はどのように感じたか??
痛いと感じたか??その痛みに平気だったか??
自分はその時に、なにを願い、なにを望んだか??
そういうことを思い出してみれば、
生き地獄の極苦を、少しくらいは想像できるはずだ。
極苦の中の動物たちの心境も想像できるはずだ。
 
どこかで「なぶり殺し」の末に殺された人は、
「お願いです・・ひと思いに殺してください・・・」と哀願した。
身体を破壊されていく極苦には、誰も耐えられないのだ。
だがその願いは叶えられなかった。
殺した人間たちは、あくまで「なぶり殺し」を楽しんだのだ。
平穏無事に暮らしている人は想像し難いかも知れないが、
だが「ひと思いに殺してください・・」という究極の哀願を、
極限境に囚われた命の究極の心境を知るべきだと思う。
そういうことは、実際に起こっているのだ。
あるいは極限境遇の動物は世界中にいるのである。
 
たとえば「ワナ猟」も残酷極まる。
ワナに捕えられた動物の身体がどうなっていくのか??
そういうことを想像できない人が多いようである。
ワナから脱出しようとする動物の死にもの狂いの苦境を、
人人はあまりにも想像できないようである。
その動物の身体と精神が、どれほど痛めつけられるか??
なぜ世間はそれを想像できないのか??
ワナ猟に対して、なぜ世間は無関心なのか??
もしも獲物を獲るなら、なぜ「一瞬殺」を考えないのか??
なぜせめて「一瞬殺」で獲ることに真剣にならないのか??
なぜそういう配慮を本気で真剣に考えようとしないのか??
「一瞬殺」には、練達の技量が必要なはずである。
本来なら狩猟者の全員が練達の技量であるべきだ。
だが実際には、どうだろうか??
実際に全員が練達技量者なのか??
そもそも社会に、そういう配慮の発想はあるのか??
社会は「練達技量の一瞬殺」を努力したことがあるのか??
実際には半矢の半殺しで苦しませる場合も多いだろう。
無慈悲な「散弾」で苦しませる場合も多いだろう。
「ワナ」で何日も苦しませる場合も多いだろう。
「獲れればそれでいいんだ!!」ということか??
「獲れれば手段はどうでもいい!!」ということか??
これは「殺す殺さない」の話とは違う。
その話よりも切実な現実問題なのである。
「殺す殺さない」は延延と議論が続くだろうが、
まさに今この瞬間も、極苦に苦しむ命がいるのである。
尊い命を戴くならば、せめて獲る手段に配慮すべきなのだ。
人人は「感謝!感謝!」と口にするではないか。
もしも本気で感謝しているならば、
命を戴くその手段にも配慮があるはずだろうに。
しかし実際には、人人は無関心のようである。
人人の「感謝」とは、真赤な嘘なのか??
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:12:28 ≫