<<動物感覚>>
動物感覚を理解できないと、
動物と対話することはできない。
「人間感覚を捨てて動物感覚になる」という意味ではなく、
「人間感覚を持ちながらも動物感覚を理解する」ということだ。
人間である以上は人間感覚も必要になるからだ。
だが「動物感覚を理解する」には、
人間特有の先入観や固定観念は消さなければならない。
それを消さなければ動物感覚は理解できない。
それを消せるか消せないかが分かれ道となる。
それを消せない人は、
どんなに「ノウハウ」を頭に詰め込んでも、
その動物と対話して暮らすことはできない。
人間特有の価値観を動物に押し付けることになるだろうし、
あるいは動物を「擬人化」することになるだろう。
つまり対話できないということになる。
動物は、動物感覚を理解できる人を鋭く見抜く。
その人の気配に動物は共感して協調を模索する。
動物は、その人と一緒にいることが嬉しくなる。
そしてその人に対して真剣に注意を傾ける。
だが「理解できない人」に対しては気持が沈む。
その人の「命令」は、どこまでも義務になってしまう。
その人とは対話が通じないから気持も混乱してくる。
どうしていいのか分からなくなってくる。
だんだんその動物は、哀しく心を閉ざしていく。
その人はそれを「動物の問題行動!」だと決め付ける。
その人は自分自身の問題に気づかずに、
ひたすら「その動物の矯正」だけを発想していく。
そうなれば、共に暮らすことから懸け離れてしまう。
その動物は自分を殺して一生我慢を続けることになる。
あるいは剛胆ならば、烈しく抗議するようになるだろう。
そうなればその人は、その動物を飼えなくなるだろう。
動物感覚を理解することは、なかなか難しいことだ。
スペシャリストたちは、厳しい修行で体得していく。
それはどこまでも「実感」の領域なのである。
私は練達者たちの「気配」を、真剣に見る。
彼らの挙動と呼吸と心気姿勢を、真剣に見る。
たとえば犬は、その人の「精神」に協調するのである。
その人の「見た目のテクニック」などは付属品なのだ。
初級段階の人は「見た目のテクニック」に注目するが、
「目に見えない気配」などには注目しないようだが、
その人の内側の気配こそが、最も重大な「鍵」となるのだ。
その犬は、その練達者の精神に協調しているのである。
「犬は機械的に反応している」と思ったら大間違いである。
そう思っているとしたなら、犬たちに失礼至極である。
そういう人は、犬と対話することなどできない。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:12:20 ≫