<<命の魂>>

人間は異種の命を生ませて利用する。
利用するならば、そこに感謝があるはずだ。
そこに感謝があるならば、
育てる環境にも最大の配慮があるはずだ。
あるいは育てて食うならば、
その命を戴く瞬間まで、最大の配慮があるはずだ。
しかし現実に、配慮はあるのだろうか?
そこに配慮があるかどうかを、皆様にも考えて戴きたい。
≪今はネット動画などで簡単に調べることができる≫
もしそこに配慮が無いとしたなら、
当然ながら「感謝も無い」ということである。
人人の口にする「感謝!」は、真赤な嘘になる。
「命」を、利用するということ。
「命」を、戴くということ。
今一度、考えて戴きたいと願う。
命とは、なんなのか?
異種の命とは、「モノ」なのか?
今一度、考えて戴きたいと願う。
自分たちの都合と欲望のために、
異種の命を無情の過酷環境で支配するということは、
それはいったい何を意味するのかを考えて戴きたい。
もしも本当に感謝があるのなら、
そこに最大の配慮があるべきだと考えて戴きたい。
動物たちや鳥たちに感情があることは、
今では誰でも知っているはずだ。
彼らは人間と同様に繊細な感受性の持主である。
人間と同様に、痛みや苦しみや悲しみを感じる。
今ではそのことを、誰でも知っているはずである。
それならば、考えてみて欲しい。
我が身に置き換えて、彼らの境遇を考えてみて欲しい。
もしも自分だったら、耐えられるだろうか?
その絶望の毎日に、はたして耐えられるだろうか?
我が身に置き換えて、そういうことを考えてみて欲しい。
考えてみるだけでも、いろんなことが変わっていく。
人人が考え始めれば、間違いなく変わっていく。
今まで人人は、それを考えることを避けてきたのだ。
命は、魂なのだ。
あらゆる命は、魂なのだ。
「どの魂が立派だ」などということは無い。
どの魂も、純粋に「魂」である。
人間の魂が特別に立派だと思い込んでいるならば、
それは全くの誤認識であり、高慢はなはだしい。
魂たちは今生で、それぞれに姿を与えられている。
それぞれの姿で、今生の命を生きている。
それぞれの姿で、全身全霊で生きている。
その命を軽軽しく弄ぶということは、
それは大宇宙の摂理に全く背理している。
摂理に背理すれば、どういうことになるか?
それはいずれ、誰もが知ることとなる。
私はよく異種の命たちの夢を見る。
彼らの凄絶な苦悶の姿の夢を見る。
その夢のリアルな映像が目に焼きついている。
忘れることなどできないほどの凄惨な夢なのだ。
それはまだ自分が「実態」を知らない頃からの話だ。
それを知らないのに、なぜかリアルな映像を見たのだ。
映像だけではない。悲鳴まで聞こえたのである。
魂たちが、私に伝えに来たのだろうか。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:12:17 ≫