<<愛犬信義>>
犬たちにとって「信じる」とはどういうことか?
犬たちにとって「約束」とはどういうことか?
犬たちにとって「人と生きる」とはどういうことか?
その人を信じたならば、犬はどこまでもとことんである。
その「どこまでもとことん」を、人人はなかなか理解できない。
なぜなら人間自身は「どこまでもとことん」まで行かないからだ。
だからどうしても自分の実感として理解できないのである。
だが犬たちは信じたならば、どこまでもとことんである。
信ずればこそ、その人に心を開くのに、
信ずればこそ、自ら自制してその人を立てるのに、
しかし人人は犬の尊い「信」を、見事に簡単に裏切る。
犬たちの心の傷は、果てしなく深く無残だ。
深く無残な心の傷が、ありありと見える。
だがそれほどの傷を負っているのに、
犬たちは懸命にそれに耐えている。
しかし人人は、その傷の深さを知ろうともしない。
犬たちにとって人間社会は、裏切りに満ちた魔界である。
「引っ越す」からといって。「子どもが生まれた」からといって。
「恋人ができた」からといって。「邪魔になった」からといって。
あるいは「散歩が大変」だからといって。
あるいは「世話が面倒臭い」からといって。
たとえばそんな「理由」で、犬は簡単に飼養放棄される。
犬の純情に対する人間の軽薄と冷酷には魔王も驚くだろう。
だが犬たちは、懸命に頑張って耐えている。
人間なら耐えられない絶望の淵で耐えている。
どんどんどんどん犬を売る商売がある。
虐待環境で繁殖させる冷酷商売人もいる。
そして売られて飼養放棄される犬は、
おそらく一年で何十万頭もいるだろう。
これはいったい、どういうことなのか?
犬は「命!」なのだ。どういうことなのか?
これでは人間社会の倫理は滅茶苦茶である。
人間社会には倫理など無いということだろう。
いろんな性格の商売人がいるだろうが、
無責任な商売人は巧みな営業トークで売りさばく。
飼養に無知な人間にも売ろうと躍起になるだろう。
あるいは飼養未熟者にも平気で売りさばくだろう。
そしてかなりの確率で犬は飼養放棄されるだろう。
どんどんどんどん、犬は保健所に持ち込まれる。
たとえ飼主に飼養放棄を思いとどまらせたとしても、
その犬が「救われる」確率は極めて低いだろう。
そういう飼主が「変わる」確率は極めて低いからだ。
そして相変わらず「飼い殺し」の悲惨状況は続くだろう。
延延と際限なく、忍耐忍耐忍耐の日日が続くのである。
生存していても「生きる!」ことを奪われた毎日である。
そういう状況の犬が、星の数ほどいるだろう。
保健所に持ち込まれる犬の何倍もいるだろう。
飼養放棄の残酷。そして「飼い殺し」の残酷。
人間社会の倫理は滅茶苦茶である。
犬にとって人間社会は魔界である。
あるいは「家畜環境」の悲劇もある。
あるいは「動物実験」の悲劇もある。
あるいは「毛皮生産」の悲劇もある。
そういう悲劇に未だ世間は無関心である。
なぜ無関心かと言えば、
未だに「たかが動物!」の意識だからだ。
「たかが動物」の意識でいながら、
口では「地球環境!共生!」を唱えているのだ。
人人は「自分たちの身の安全」には躍起になっているのに、
人間社会に囚われた異種の命の悲劇には無関心なのだ。
動物たちの悲劇がどれほど深刻か知ろうともせずに。
それがどれほど耐え難い苦しみか知ろうともせずに。
いったいどこに「共生心」があるというのか?
いったいどこに「感謝」があるというのか?
人人は口では美言を唱えるが、
その本性は冷酷な支配者のままのようである。
なお人間社会に於ける動物の悲劇の実態を知らない人は、
「YOUTUBE」で探してみれば分かるはずである。
もしそういう悲劇を見ても平気でいられるならば、
「命」のことを全く知らないということだ。
大宇宙の摂理を全く知らないということだ。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:12:15 ≫