<<同情感性>>
同情に、種の壁は存在しない。
対象が人間であろうが動物であろうが無関係である。
あらゆる同情は、同じ源泉から湧き出るものなのだ。
道端で行き倒れた人間を助ける時にも。
檻の中で飢え死に寸前の犬を助ける時にも。
それらは全く同じ同情源泉から湧き出るものなのである。
ところが、それを無理やり区別しようとする人人がいる。
だから話がややこしくなって、おかしな方向に進んでいく。
分けられないものを無理やり分けようとするからである。
なんで分けて考えようとするのか、さっぱり分からない。
世の中には、「意味の無い思考」を好む人人が多いようだ。
人間を助けられる時には人間を助ければいい。
動物を助けられる時には動物を助ければいい。
両者共に助けられる時には両者共に助ければいい。
普通に自然体で己の同情源泉に従えばいいのである。
それを「どっちが大事なんだ?」などと比較するから、
結局は何者も助けられずに終わってしまうのである。
その時の事情がある。その場の事情がある。
様様な事情の中で臨機応変に行くしかないのである。
それを最初から比較してどうするのか?
最初から垣根を作ってどうするのか?
人人は垣根を作り比較するのが大好きである。
だからいつまで経っても前に進めないのである。
「人間だけを助けたい」という同情は存在しない。
人を助けたいと思う人は、
もし目の前に苦しむ犬を発見すれば、
その犬を助けるはずである。
たとえ助けられなくとも、
「できることなら助けてあげたい」と思うはずである。
なぜなら同情は同じ源泉から湧き出るものだからだ。
しかし世間の固定観念に染まってしまった人は、
自分のその同情源泉に気づかないかも知れない。
あるいは自分で自分の同情源泉を否定するかも知れない。
「動物に対する同情など、いけないことなんだ!」と。
そういう人は、やがて葛藤に苦しむこととなるだろう。
そしてだんだん、思考も混乱してくるだろう。
確かメキシコ湾だったと思うが、
成長途上の「ジンベイザメ」が、
胴体にロープを絡ませたままで苦しんでいた。
当然ながら、ロープは身体に食い込んでいくのだ。
成長と共に、どんどん食い込んでいくのだが、
普通の感性なら「なんと痛痛しいことか!」と同情するだろう。
「痛いだろうに・・苦しいだろうに・・」と同情するだろう。
「できることならば、なんとかしてあげたい!」と同情するだろう。
それが本来の普通の自然体の感性だと思うのである。
実際、どこかのダイバーがロープを切断してサメを助けた。
サメの身体には深く痛痛しい食い込みの窪みが見えた。
ジンベイザメは、とてもとても喜んでいた。
一匹の大きなサメが理不尽な苦しみに苦しんでいた。
人人はそれを見て「なんとかしてあげたい!」と同情した。
そしてサメは人間に助けられ、とてもとても喜んだ。
素晴らしいことではないか!なんと素晴らしいことか!
ところが世の中には、その同情を否定する人人も存在するのだ。
異種の命に対する同情を嘲笑する人人も存在するのである。
わざわざ垣根を作って比較して、
本来の自然体から懸け離れてしまった人人である。
同情とはシンプルに「思いやり」のことだと思うのだが、
それは意識するものではなく「湧きあがる」ものだと思うのだが、
昨今はそれを屈折した見方で見る人が多いように感じる。
同情なんて所詮は自己満足に過ぎないものだとか、
「上から目線だ」とか「優越意識だ」とか「何様だ?」とか、
そのような見方で見る人が増えたように感じる。
まるで同情することが「偽善」であるかのように、
そのように考える人が増えてきたように感じる。
なぜそのような見方の人が増えたのかは分からない。
他者を羨む人が多いのだろうか?
自分と他者を比較する人が多いのだろうか?
そして嫉妬や憎悪に染まった人が多いのだろうか?
あるいは、自分に自信の無い人が多いのだろうか?
自分に自信が無いから、人の厚意を屈折して解釈するのか?
自分が卑屈になっているから、厚意の正体が見えないのか?
だから人の同情に対して歪んだ批判意識が生まれるのか?
批判的な人が増えれば、世間は徐徐にそれに染まってくる。
世間全体が、段段そういう見方の方向に進んでいく。
そして今や、「同情なんてものは偽善なんだよ!」となってきた。
だがしかし、もし一片も同情の無い世界ならば、どうなるか?
一切の同情の存在しない世界とは、どういう世界か?
もし本心で同情を嫌うのなら、そういう世界で平気なはずだ。
そういう世界でもその人は、充分に生き抜けるはずである。
そういう理屈になるが、実際には生き抜けないだろう。
その人の精神は、途中で悲鳴を上げてギブアップするだろう。
この森の今朝の気温は氷点下10度である。
たとえばこの森に棲む我我家族に対して、
「さぞかし寒いだろうに・・」と想ってくれたら同情だ。
「腹が減ってたら可哀そうだな・・」と想ってくれたら同情だ。
私はストレートに、「心配してくれてありがとう!」と御礼する。
だが「不幸で可哀そうな犬たち・・」と思う人がいたとしたら、
それは同情などではなく、「著しい勘違い!」なのである。
なぜなら、たとえ苦しくとも、我我は生き生きと輝いているからだ。
しかし我我の生き様を理解してくれた上で心配してくれれば、
それは同情以外の何ものでも無いだろう。
私は素直に心の底から「ありがとう!」と御礼する。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:12:03 ≫