<<狼山華厳>>


狼山ブログ「狼の山の魂」は、
何を言いたかったのか?
狼山は野性界動物寺だから、
当然ながら動物の尊厳を説いている。
だがそれには様様な事柄が関係してくる。
その関係する様様な事柄を抜きには語れない。
これはひと言では済まない話だったのである。
もちろん仏教の話も避けては通れないのである。
その領域の話を抜きには、動物尊厳の説明は難しいのだ。
動物尊厳の話は結局は、その領域に行き着くことになるのだ。
この狼山ブログには一度も書かなかったが、
私は昔日に激烈な試練を受けている。
それは言葉にできないほどに辛い試練だった。
その試練の時、私は不可思議を実体験した。
人間思考をはるかに超える領域を実体験した。
だから私は仏教が「実在」することを知っている。
それが人間の空想でも妄想でもなく実在することを。
そしてそれから、華厳道を突き進むこととなった。
「華厳」は昔に友人のアメリカンネイティヴから知らされたのだが、
この華厳によって自分のそれまでの仏教観は劇的に変わった。
これこそが「あらゆる命の尊厳」を説いたものだった。
華厳を読むたびに身体の深奥から感動が湧き起こり涙した。
そして私は、全身全霊で華厳を求道する年月を続けた。
そしてより鮮やかに、動物の尊厳の実像が見えるようになった。
そこで見えた世界を書こうとしてきたのだが、
なにしろ言葉に変換して文章に書くのは難しいことだった。
なぜならそれは、言葉を超えた世界なのだ。
それは言葉にできない不可思議な世界なのだ。
私は人に仏教を勧めたりはしない。
ただただ紹介してきただけである。
「こういう教えもある」と紹介しただけである。
なぜなら仏教は、どこまでも「自分次第」だからだ。
たとえ人に勧められても、己の本心が求めない限り、
仏教の真義を垣間見ることはできないからである。
だから読んでどう受け止めるかは、読んだ人の勝手だ。
読んで違和感を感じて敬遠したくなったとしたら、
その人は未だ仏教とは縁が薄いということだろう。
なにしろ仏教は「百千万劫難遭遇」なのだ。
それほどまでに本心で遭遇し難い微妙法なのである。
だが思う。もし人人が仏教と本心で遭遇すれば、
動物の尊厳に対する認識は劇的に変わるだろう。
そこに一縷の望みを賭けて紹介記事を書いてきた。
たとえば「命を売る」という商売がある。
「命を売る」ということが、どういうことなのか?
その重大な深刻さを人人は知らなければならない。
たとえば「犬」を売るとする。
売る人間は最後の最後まで、
その犬の行く末を見守らなければならない。
いかなることがあろうとも護らなければならない。
それが「命を売る」ということの責任である。
「命」とは、それほどまでに尊いものである。
もちろん「飼う人間」の責任は無論のことである。
それはもちろん無論のことなのだが、
売る人間の責任も同等に限りなく重大極まるのだ。
たとえば「家畜を経済利用する」とする。
もしも経済利用するならば、
その家畜を最後の最後まで見守らなければならない。
いかなる事情があろうとも、とことん護らなければならない。
命を経済利用するということは、そういうことである。
「命」とは、それほどまでに尊いものである。
なぜ異種の命も同等に尊いかは、華厳に説かれている。
そして異種の命に「心」があることを、
異種の命に人間と同様の感性感受性があることを、
この「狼の山の魂」に書いてきた。
** 無上甚深微妙法 **
** 百千万劫難遭遇 **
** 我今見聞得受持 **
** 願解如来真実義 **
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:11:26 ≫