<<摂理本能>>
 
「本能」というと、悪い意味に解釈される場合が多いようだ。
あたかも「理性」と対極のごとくに誤解されているようだ。
だが本能とは、「命に秘められた教典」なのである。
その教典こそが、命の生存を支えているのである。
そしてまた大自然の調和を支えているのである。
本当は理性もまた本能の中の一部分なのだが、
どうもそのようには見られていないようである。
よく「理性に目覚める」という言葉があるが、
それは本能に眠る理性が目覚めるということなのだ。
本能と理性は相反する別物では無いのである。
 
大自然がどれほど絶妙に調和されているかは、
今では誰もが理解しているはずである。
その絶妙のレベルが人智を超えた領域だと、
今では誰もが理解しているはずである。
大自然の命たちの本能がフルに発揮されて、
そうして大自然は一瞬一瞬に調和されているのだ。
そもそも、その本能は誰が企てたのか??
人智を超えた絶妙を、誰が設計したのか??
はるか太古の大昔から、本能は厳然と存在していたのだ。
そしてその能力は存分に発揮されていたのである。
はるか原始時代から、本能は調和を支えてきたのである。
それを人間が企て、人間が設計できるのか??
現代の最新科学でも、そんなことは不可能である。
最新科学と言えども、結局は「何かを元に!」研究するのである。
その「何かを元に!」が無ければ、研究さえも不可能なのだ。
全くの「ゼロ!白紙!」から≪本能≫を誕生させるということは、
それは科学とは別次元の、異次元領域なのである。
大自然を調和させるという、想像を絶した神秘の絶妙!!
それはもう完全に、無限レベルの途轍もなさである!!
その神秘の絶妙を成し遂げているのは、
それぞれの命たちの神秘の本能なのである。
いったい「何?」が本能の≪生みの親≫なのだろうか??
そろそろそういうことを人間も本気で考えてみるべきだと思う。
もはや固定観念や偏見に縛られている時代では無いと思うのだ。
科学には科学の重大な役割がある。
そして科学とは別領域が厳粛に存在する。
自然体で「それは別の話だね!」と了解できないものか??
自然体で「それは領域が違うね!」と了解できないものか??
もし「SOMETHING GREAT!!」を人間が否定するのなら、
それは人間自身をも否定することだと思うのだ。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:11:18 ≫