<<空//KUU>>
 
仏教の「空」とは、果てしなく深遠である。
だから簡単に説明すると誤解を招く怖れがある。
だがあえて説明するとしたならば、
「存在は、縁起の中での存在である!」ということか。
「縁起を出たら、存在は成立しない!」ということか。
ただしそれは想像を絶する無限の縁起のことである。
この世の全ては縁で起こり、縁で結ばれている。
「縁」無しには、存在は不可能なのである。
これは理解できるようで、なかなか理解が難しい。
なにより、それを「実感」することが難しい。
それを本当に実感できれば、もはや解脱である。
 
よく、「無我」という言葉が使われるが、
無我とはつまり、「縁起で存在すること」である。
「自分は無い!」という意味ではないのである。
縁起の中に於いては、確かに自分は在るのだ。
だがそれは、「縁起の中に於いて!」なのである。
これを誤解して、ただ「自分は無い!」と思い込もうとすると、
おそらく精神が混乱してくるだろうと思う。
自分に対して無理難題を吹っかけているからである。
あるいは、「虚無主義:ニヒリズム」に陥ってしまうだろう。
「存在なんてものは無いんだ!全ては虚妄なんだ!」となってしまう。
これでは仏教の真義とは、まったく真逆になってしまう。
「生き生きとした人生!!」とは真逆になってしまう。
 
「空」を知るということは、
「縁起の深義」を知ることだと思う。
縁起の深義を知ることこそ最も重大だ。
その深義とは「あらゆる命の尊厳の同等」だと感じる。
それは「種の違いを超えた命の尊厳」の意味である。
だがこれは「実感!」が極めて難しいだろう。
もしそれを本当の本心で実感できたならば、
「ものの見え方」が全く変わるはずである。
世界観も人生観も全く変わるはずである。
その人の「生き方」は、根本から変わるはずである。
「実感!」するということは、そういうことである。
「空」とは、頭の思考だけでは理解できないのだ。
頭の思考だけで理解しようとすると「空病!」になってしまう。
「空」とは、結局は己の実感でしか理解できないのだ。
実感なしに「空議論」をしても、際限なく虚しくなるだけなのだ。
その際限なく虚しい議論に生き甲斐を感じる人も多いようだが。
 
ところで「空」とは、すなわち「無常」のことでもある。
全ては一瞬一瞬に縁起しているのだから、
だから当然ながら、この世は「無常!」である。
この世の全てが一瞬一瞬に縁起するのだから、
一瞬一瞬に新たな「新世界!」となる訳である。
この世の全ては、一瞬たりとも「同じ状態」を保たないのだ。
「無常」とはつまり、縁起によって無常となるのである。
「空」とは無我であり無常だと説かれるが、
それはつまり「全ては縁起されている」からなのだ。
つまり縁起が理解できれば、無我も無常も理解できるのである。
 
日常では「空」について考える機会は少ないと思われるが、
それでも「般若心経」は、一般にもかなり知られているようだ。
その解説本も、たくさん書店に並んでいるようである。
昔にパラパラと何冊かの解説本を読んだことはあったが、
だいたいどの本も似たような内容であった。
ようするに「実体というものは無い!」という説明であった。
だいたいそこで説明は終わっていることが多かったが、
「全ては夢幻虚妄だから執着など持つな!」という文意だと思うが、
確かに般若心経の重要な意図は、それであったと思う。
「執着など忘れて≪覚り≫を目指せ!!」というものである。
人間は特に「執着!」の傾向が強烈だから、
「執着!」とは人間にとって最大の難問だから、
その意味で般若心経には偉大な役割があるだろう。
だがそれだけでは、「空」の解釈は途中である。
それだけでは、「空」の真意を知らずに終わる。
「空」はそこから、「突き抜けていく!!」のである。
「空」はいよいよ、≪大悲≫の姿を現わすのである。
「空」の真の姿は、無限の大悲なのである!!
※もし「大悲」という言葉だと分かりにくい場合には、
「SUPER GREAT LOVE」のような感じで読んでください。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:11:17 ≫