<<愛犬教導>>
その犬を教導する時には、
その犬に「分かり易い!」ように教導する。
「分かり難い!」教導など意味は無いのだ。
意味が無いどころか、逆効果の弊害となる。
犬によって、その「分かり易い!」が違うから、
だから教科書的な定型教導など無いはずである。
もちろん犬全体に共通する部分に於いては、
ある程度の「常識:基本」というものはあるから、
まずはそれを知っておくことが非常に重大だが。
そして犬種独特の「傾向性」というものがあるから、
それを知っておくことも非常に重大だが。
それを知った上での、臨機応変教導である。
だが臨機応変教導というのは感覚領域なので、
自分自身の「感覚!」を練磨していく必要がある。
臨機応変の「分かり易い」教導は、自分次第なのである。
「NO.694」の記事で、愛犬散歩について書いたが、
そこで「多少は犬が引っ張っても・・・」と書いたのだが、
それは主に「犬の心情を知る」という意味で書いたのだが、
それはいつまでも無闇に引っ張り続ける意味では無い。
いつまでも無闇にでは、無我夢中状態が続き過ぎるし、
それではいくらなんでも飼主は困ってしまうだろう。
そういう場合には教導しなければならない。
しかし問題は、教導の方法である。
臨機応変の「分かり易い」教導が必要である。
飼主が「強圧強制」で制御しようと目論んでも、
それは根本的な解決にはならないのである。
気性の激しい犬なら、その「強圧」に対して対抗する。
誤解され易いのだが、飼主に対して対抗するのではない。
その犬は、「その強圧そのもの!」に対して対抗するのである。
一般的な犬は、普通は飼主への対抗心など持たないのだ。
そんな野心など普通は持たないのが「犬」なのだ。
よく大袈裟に「不服従」とか「権勢症候群」とか言われるが、
そのほとんどの場合は、人間側の「誤解」なのである。
昔昔、多くの「そう呼ばれる犬たち」の教導を任された。
「咬み犬」の烙印を押された犬も多かった。
だが預かってみれば、「そう呼ばれる犬たち」ではなかった。
それは飼主たちの「誤解」だったのだ。
ただし何頭かは、極度の「興奮性」の持主だったので、
そういう個体の場合には、飼主には荷が重いだろう。
一般の飼主には荷が重い場合も、確かにあるのだ。
それは確かにあるのだが、だが誤解も多いということだ。
「飼主の認識不足」と「飼主の姿勢の問題」が大多数なのだ。
ところで引っ張り続ける犬は、無我夢中状態なのである。
無我夢中だから、飼主の指令も耳には入らない。
だから問題は、「いかに目を醒まさせるか!」なのである。
この「目を醒まさせる!」というのがポイントなのである。
そして醒めた状態を持続させることが大きな課題である。
ただ闇雲に「強制首輪:チョークチェーン」などに頼っても、
それでは根本の解決にはならないのである。
私はそういう道具の意味は知っているが使ったことは無い。
もちろん周囲からはそれを勧められたが、いつも辞退した。
調練場では「猛犬種」と呼ばれる大型犬が多かったから、
周囲は普通に親切心で勧めてくれたのだが丁寧に断った。
だから通常の調練の際には、いつも負荷の無い首輪を使った。
その首輪で対話できなければ、野性対話道は嘘になってしまうのだ。
ところで「分かり易い教導」というのは、ある種の「演劇」である。
飼主は、その演劇を演じ切らなければならない。
「恥ずかしい・・」とか言ってる場合では無い。
目的のために、全身全霊で演じ切るのである。
もし恥ずかしかったら、誰もいない場所でやればいい。
誰もいない場所なら、思い切り大きな声も出せるだろう。
この「声!」も、極めて重大な要素なのだ。
「声!」に無関心な人も多いが、声は極めて重大なのだ。
これは「美声」という意味では無い。
もちろん無闇に叫ぶ「怒鳴り声」でも無い。
「力を持つ声」のことであり、「声の力」の意味である。
その自分の「声の力」を、自分で磨いていくのである。
声の力というのは、ほんとうに「力!」を持っているのである。
もちろん「ささやき」というのも、声の力の一つの姿である。
たとえば飼主が無我夢中状態の犬の前に回り込む。
迅速に犬の前に回り込んで、静止して犬と向き合う。
犬を止めた瞬間に、自分が犬の前に回り込むのである。
そしてしっかりと、犬と向き合うのである。
もちろん、目と目で見詰め合う。
そんなことは当たり前の話である!!
その時にどのように対話するかが問題だが、
まずは犬を無我夢中から目覚めさせることが先決だ。
だが目覚めさせるには、「力!」が必要だ。
目の力!!声の力!!心念の力!!
全身全霊で自分の「力!」を通じさせるのである。
この「心念力」も極めて重大だから、
だからいろんな記事に散りばめて書いてきたが、
それはこういう状況に於いても不可欠なのである。
そういう意味に於いても書いてきたのである。
そして「頃合を見計らって」そのような静止対面を試みていく。
しつこく頻繁に行なったら意味は無くなるはずだから、
「頃合を見計らって!」が非常に大事なのである。
焦らずに、徐徐に段階を踏んでいくことが鉄則である。
段階を踏んでいけば、犬はだんだん、
「目を醒ます」ことを覚えていくようになる。
目を醒ますということの「意味」を知るようになる。
そうすれば、散歩は劇的に変わってくるのである。
これは「たとえば」の例に過ぎないが、
それぞれの場合で、それぞれの対策を見つけていく。
それぞれの場合で、臨機応変教導していくのである。
このまま書き続けるとキリが無いので、
今日はこの辺で終わることにする。
それにしても文章で伝えようとすると長くなる。
たとえばリアルの会話で話せば何十倍も速いのだが。
あるいは「映像」ならば、格段に伝え易いだろう。
いつか映像で伝えたいとは思うのだが、
なにしろ狼山の人間は自分だけなので実現は難しい。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:11:12 ≫