<<愛犬散歩//愛犬健康>>
犬の「散歩」については何度か書いてきたが、
想像以上に「散歩」で悩む飼主が多いようなので、
もう一度、書いてみることにした。
それと同時に、「犬の健康」についても書いてみる。
調練を共にした多種多様の大勢の犬たちとの。
そしてこの三十年の数十頭の家族たちとの。
彼らとの実体験を元に書いてみることにする。
犬は本来的には、躍動の動物である。
もちろん躍動とともに深静を知る動物なのだが、
躍動して「健康」を維持するようになっている。
それ無しに健康を維持することは無理である。
皆さんは「犬の躍動」を見たことがあるだろうか??
たとえば各種のドッグスポーツの競技会などで、
犬の躍動の片鱗を見たことがあるかも知れないが。
そういう光景を見たことがある人なら、
犬の躍動の一端を知っているはずである。
犬の縦横無尽の全力躍動は、もっともっと凄いのだが、
しかし片鱗と一端は、想像できるはずである。
そこから想像できるように、
犬は「非常に大きなエネルギー」を秘めている。
その大きなエネルギーを閉じ込め続けていたら、
いろんなところで不調が起こってくる。
目に見えないところでも不調が起こっている。
だから躍動は重大なのだが、
住環境的にエネルギー発揮が難しい場合が多いだろう。
それはもう、どうにもならないことだろう。
だが、どうにもならないことだとはしても、
ひとつだけ飼主は肝に銘じておく必要がある。
「・・犬が躍動を我慢している・・」ということを。
それを念頭に置くか置かないかで、すべてが変わってくる。
それは対話という観点に於いても、決定的に関わってくる。
たとえば犬が人間の歩行速度に合せて散歩することを、
それを「あたりまえ!」と思っている時点で、対話不成立である。
犬との対話は、そこには存在していないのだ。
たとえば柴犬クラスの体格の犬でも、
普通に歩けば人間よりもはるかに速いのである。
それを人間の歩行速度まで減速してくれているのである。
まずそれを、大いに認めてあげなくてはならない。
口には出さずとも、心の中で認めてあげればいい。
本心で認めていたならば、それは犬に伝わるのである。
まずはそういうところから、対話は始まるのである。
あるいは散歩の開始の時には、
犬の身体にエネルギーが閉じ込められた状態である。
もしそのままで人間の歩く速度に合せていたら、
それはつまり相当な抑圧になっているはずだ。
たとえば「馬」のばあいには、「放牧」という形がある。
「朝飼葉:朝食」の前に、普通は馬は放牧される。
馬たちは、そこでできる限りにエネルギーを解き放つ。
だから放牧は、極めて重大な日課なのである。
それと同様に、本当は犬にも「放牧」は必要なのだ。
まずは存分にエネルギーを解き放つ機会が必要なのだ。
だがほとんどの場合、そういう機会は与えられないようだ。
そういう機会を与える前に、いきなり徒歩散歩に入るようだ。
はっきり言って、それは本来的には無理がある。
その状態で人間の歩行速度に同調させるのは無理がある。
「たとえ強引に強制することはできても・・」という意味である。
だが多くの飼主は、「犬が引っ張る!困る!」と嘆く。
本当は犬にしてみれば、「その歩行速度は困る・・」のだが。
それは困ることだが、その犬なりに我慢しているのである。
まず飼主は、その辺の事情を理解しておくべきである。
それを理解した上で、最善の解決策を模索するべきである。
<<ただし超小型犬や英ブルドッグなどは別の話である>>
しかし現実には、それもままならないだろう。
「私設ドッグラン」など、普通は持てないだろうから。
たとえ短時間でもドッグランで存分に解放すれば、
その後の「犬の落ち着き方!」が格段に違うはずである。
そこから徒歩散歩に入れば、犬も「聞く耳」を持てるはずである。
犬の気持が鎮まれば、主人の指示にも傾注するはずである。
犬は摂理本能で、まずは充満したエネルギーを解放したいのだ。
だがそんな環境は、ままならないことだろう。
だから結局、犬たちは我慢を続けていくのである。
あるいは犬たちは、自ら諦念していくということである。
せめてその「犬たちの我慢」を認めてあげて欲しいのである。
そうでなければ、犬の立つ瀬が無いというものだ。
ところでこの「躍動」とは、肉体の躍動の意味だけでは無い。
肉体の躍動とともに、精神の躍動なのである。
精神の躍動もまた、絶対に不可欠なのである。
だから、ただ「走らせればいい」という意味では無いのだ。
「躍動精神で肉体を躍動させる!」という意味なのである。
それでなければ、その運動の効果は著しく半減する。
それは想像よりもはるかに著しく半減するのである。
精神の躍動とは、そのまま「健康」に直結している。
それはつまり、「生き生き!!」という意味なのである。
自分の場合は、様様な運動を日課として実践してきた。
フリートレック。手綱散歩。自転車運動。犬ゾリ。ディスクキャッチ。
その様様な散歩運動と精神躍動によって、犬たちは元気満満だった。
自慢する訳ではないが、我家の犬たちは実に強靭である。
素晴らしく頑丈であり、そして彼らは長命である。
今の家族の15歳14歳13歳の連中も、元気一杯に走っている。
老境の家族たちも、零下22度の冬を乗り越えてきたのである。
確かに我家は山の中だが、標高1300mの森の中だが、
いかに大自然に棲もうとも、それだけでは強靭にはなれない。
その環境の中で「どのように暮らすか?」が問題なのである。
精神の躍動。肉体の躍動。気力。深い絆。深静の野性禅。
気力と深い絆と野性禅もまた、強靭な健康に不可欠なのだ。
もうひとつ言うならば、我我はときどき絶食する。
もちろん私も犬たちも一緒に絶食するのだが、
ときどきの絶食は身体内部を調整すると実感している。
そして身体の奥から生命力が湧きあがる感じを実感している。
しかし個人差個体差もあるだろうから、人に勧めることはできない。
そしてこれは成犬の話であり、成長期の未成犬は別の話である。
ところで多くの飼主は「食」ばかりに注目するようだが、
「食」だけで健康を維持することなど無理である。
「食」でカヴァーできる範囲は、あくまでも一部分なのだ。
「あくまでも一部分」だということを、肝に銘じるべきである。
犬の健康は、どこまでも「トータル」で成立するものなのだ。
住環境。安息。食事。躍動。感動。気力。深静。信頼。対話。
そのどれが欠けても、健康にはなれないのである。
これは「発育」についても全く同じである。
発育もまた、「トータル」で成立するのである。
もちろん「食」や「医療検診」は重要なファクターだが、
それはほんの「一領域」に過ぎないことを知るべきである。
そしてあるいは、「遺伝的な問題」も多いはずである。
なぜそんなに「遺伝的な問題」が起こるかと言えば、
それは考えなくとも明らかである。
考えなくとも明らかなのに、なかなか分からない人が多いようだ。
≪それについては、すでに何度か書いてきたので省略する≫
本来なら犬たちは、そう簡単には不調にはならない。
本来ならば、犬は実に強靭な動物なのである。
ところが昨今はどうであろうか??
あまりにも不調の犬が多過ぎるように感じてならない。
もしかして世間は、元気過ぎる犬を嫌っているのでは??
世間は元気満満の強靭犬を実は望んでいないのでは??
そんなふうにも思えるのである。
ところで「手綱散歩」の要諦を短く簡単に書いてみる。
まず「手綱の握り方」である。
そして「手綱に命を吹き込む」のである。
そして根幹は、飼主自身の「姿勢」である。
心の姿勢と、身体の姿勢である。
その両方の姿勢は、どちらも同じく重大である。
≪その姿勢については、何度も書いてきたので省略する≫
犬との散歩は、対話である。
対話できれば、散歩に於ける問題は解決していく。
「それは果たして問題であるのか?」ということも分かる。
本当は「そんなことは問題では無いこと!」なのに、
「これは問題だ!」と思い込んでしまう人も多いのだ。
そうやって犬の心を追い込んでいく飼主も多いのだ。
対話散歩に於いては、心の姿勢こそが根幹である。
散歩の前に、まず自分の心の姿勢を内観することだ。
そして身体の姿勢も、常に自分で練磨していくことだ。
いかなる時も「瞬間対応!」できるように練磨していく。
その「レスポンス!」が極めて重大なのである。
その前に、「予測!」も同様に重大だが。
散歩とは、「予測の連続!」なのである。
そして全体としては、「自然体!」である。
「自然体!」で対話散歩ができるように、自分を練磨していく。
もうお分かりのように、つまり「自分自身」である。
最も重大な鍵は、「自分自身」なのである!!
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:11:06 ≫