<<?社会犬?>>
 
犬関係のブログでは、
よく「犬の社会化」という言葉が登場する。
あまりにも安易に使われる言葉だと感じる。
そのそも、その「社会」とは、どんな社会なのか??
社会と言っても、いろんな社会があるはずだが。
そこら辺が、まったく漠然としているように感じる。
その「社会」というのは、どんな社会なのか??
それによって「社会化」の意味は、
まったく違ったものとなるはずなのだ。
そこら辺を理解していないと、
場合によっては、ひたすら犬を追い込むことになる。
犬は立つ瀬を失い、とことん己を殺して生きることになる。
とことん己を殺して生きるということが、どういうことなのか??
はたしてそれは、「生きる」ということなのか??
 
「たとえどんな状況でも人間社会に完全隷従」ということか??
「たとえどんな理不尽状況でも完全隷従」ということか??
いろんな「犬の社会化」の記事を読んでみると、
結局のところは、完全無欠の完全隷従を要求しているようである。
書き手はいろいろ語った末に、結局のところは、それを要求している。
その書き手たちは、さぞかし完全無欠人間なのだろう。
自分の胸に手を当てて、自分を内観してみるべきだ。
 
そもそも「犬種」というものは、
自分勝手に人間が造り出してきたものである。
いったいどうやって造ってきたか??
そのプロセスは徹底的に冷酷非情である。
あくまで人間の嗜好基準で長久の年月に亘り、
とことん徹底的に「部分」を先鋭化させてきた。
つまり犬種によって、その「部分」が違うということだ。
そして「長久の年月に亘り徹底的に」であるから、
その「部分」はもはや、その犬種の個性となっている。
その先鋭化された部分は、もはや「個性」なのである。
その犬種を理解するということは、
その独特な個性を理解するということなのである。
だがそもそも個人的な嗜好基準で犬種は造られたから、
その犬種の個性が「万人受け」するとは限らない。
むしろ多くの場合は、「万人受け」などしないのである。
まずそれを理解すべきである。
それを理解した上での対応策でなければならないのだ。
だがそれを理解している人は非常に少ないように感じる。
 
そもそも、この人間社会とは、どういう有様なのか??
だいいち、犬嫌いの人間は、想像よりもずっと多い。
嫌いまでいかなくとも、犬が苦手な人間は想像以上に多い。
苦手までいかなくとも、犬を理解できない人間は想像以上に多い。
そういった人間の方が、「犬好き」よりも圧倒的に多いのである。
それがこの「人間社会」の実情である。
まずそれを念頭に置く必要があるのだ。
それを認識した上で「社会化」を考えなくてはならない。
そうでなければ犬たちは、生まれてから死ぬまでずっと、
延延と「己を殺し続けて」いかなければならない。
 
だが犬たちが懸命に「己を殺し続けて」いたとしても、
世間は決して犬たちに敬意を払ったりはしない。
犬たちの途方も無い「努力」を、完全に無視する。
むしろ、よく使われる軽蔑の意味の「犬:隷従者」として見る。
「あいつは、○○の犬だ!」というような軽蔑した意味である。
よく、「私は猫の、隷従しないプライドが好き!」などと言う人が多い。
そういう人が多いが、それは野性の剛胆犬を知らないからである。
犬の中には、決して隷従しない野性の剛胆犬も、いるのである。
だがそういう犬は、たいてい社会から抹殺されるのである。
「社会犬」としては絶対に認めてもらえないからである。
世間は犬を隷従者と軽蔑しながら、
隷従者にならない犬は抹殺していくのである。
まことに相反する、おかしな話である。
私は昔は野性の剛胆犬と暮らしてきたが、
彼らの真髄を本心で理解できたから、
世間との「間合い:距離感」を全集中力で厳重に配慮した。
もちろん自然体は心得ながらも、
「世間との間合い」には一瞬たりとも油断しなかった。
我が家族たちは決して吠えなかったが、
いつも静かに悠然としていたが、
決して攻撃の素振りも見せなかったが、
だが絶対に第三者には服従しなかったからである。
そういう犬も、中には存在するのである。
「しつけ」とか「訓練」とか、そういう次元では無いのである。
そういう次元で緩和できる犬は、野性の剛胆犬とは呼ばないのだ。
 
犬好きサークルの人たちは、
「うちの犬は、どんな場所でも、こんなに良い子よ!」
「見て見て!これが犬の社会化よ!良い子でしょ!」
などと自慢するが、世間一般は内心では、どう思っているか??
「おいおい、こんな場所に、犬なんか連れてくるなよ!」であろう。
「おいおい、少しは場所をわきまえろよ!迷惑だろ!」であろう。
こういうケースが実に多いのではなかろうか。
簡単に言えば、犬好きたちの「勘違い」である。
世間は犬好きたちが思い描く愛犬世界とは違うのである。
「おいおい、ドッグカフェだってよ!贅沢なんだよ!」
「おいおい、人間が苦労してるのに、なんでお犬様なんだよ!」
世間一般は、おおむね、そのように感じているだろう。
犬好きたちがいくら「犬って可愛いでしょ!」と叫ぼうが、
「なんだよ、犬コロなんか目障りだよ!」と見る人も多いのである。
犬好きの人たちが「社会化!」を自慢しようが、
世間一般の内心は「それで???」で終わる有様だろう。
犬好きの人たちは、そこら辺を認識した方がいいだろう。
 
どこかの精神科医?が書いたらしいが、
「イヌネコにしか心を開けない人たち」という本があるようだ。
読んだことは無いが、およそ内容の見当は付く。
そのタイトルが、まさに内容を象徴しているだろう。
その精神科医は自分も犬猫溺愛者だと告白しているようだが、
「自分もペットロスに苦しんだほどの溺愛者である」とのことだが、
だがその人は、まだ「分からない」境地なのだと感じる。
自分の飼う犬猫は溺愛するが、そこまでのようである。
いわゆる「動物愛護」に対する視座も世間感覚のままのようである。
残念ながらその人は、まだ深奥を分かっていないように感じる。
動物の心の世界の深奥を、まだ分かっていないように感じる。
だから世間を煽るようなタイトルを平気で付けるのだろう。
ほとんどの人人は、「ああ、やっぱりね!!」と思うだろう。
「やっぱり、犬猫に愛情を捧げるなんて異常なことなんだ!」
「人を愛せない人が、犬猫を異常に愛するようになるんだ!」
本のタイトルを見ただけでも、多くの人はそう思うだろう。
著者の精神科医は、つまり一般的な世間感覚だろう。
その人は、ごくごく普通の世間感覚だということだろう。
その人もまた、犬たちがどんなに「社会犬」になっても、
犬たちに敬意を払う心境地になどなれないだろう。
その社会犬を平気で「モノ扱い」する世間に対して、
その人もまた、いささかも疑問など抱かないだろう。
「モノ扱い」する世間に抗議などすればその人から、
「イヌネコにしか心を開けない人たち!」と揶揄されるだろう。
これがいわゆる、日本社会の世間感覚ではなかろうか。
昔は犬たちは、「たかが畜生!!」と蔑まれていた。
その認識は随分と変わってきたようにも思えるが、
実のところはあまり変わっていないのではなかろうか??
 
犬たちは、ほんとうに大変である。
自分を理解してくれない社会というものに、
完全無欠に「社会化」することを求められるのだから。
要するに「程度問題」なのである。
そしてまた「事情:状況」によりけりなのである。
それが最も肝心であり重大なのである。
だが程度や事情や状況を察知できない人が多いようだ。
それは感覚領域だから、本で知ることはできない。
その感覚を自分自身で練磨していくしかないのだ。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:10:30 ≫