<<命は神秘>>
 
命は、神秘である。
人間だけの話ではない。
どんな種族の命も神秘である。
どんな種族の命も神秘だから、
だから命は神秘なのである。
 
どれくらい神秘かと言えば、
誰にも想像できない領域の神秘である。
想像できる領域ならば神秘とは言わないのだ。
もしも生命科学が究極まで深まれば、
その時こそ「命は神秘である」ことが、
ついに人人に理解されるだろう。
科学が究極まで深まればこそついに、
それが科学領域を超えていることを知るだろう。
それがまったく別の次元の領域だと知るだろう。
命の神秘が解明されるのではなく、
「命は神秘である」ことが解明されるということだ。
 
命は神秘である。
神秘の命を「物」として扱えば、
どういうことになるのか??
それは誰でも分かるはずである。
考えなくても分かるはずである。
だが現実には人間は、
異種の命たちを「物」として扱い続けてきた。
長い長い年月に亘り、「物」として扱い続けてきた。
人間は、その事実を自覚すべきである。
異種の命を「物」と見るということ。
異種の命を「物」と扱うということ。
それがどういうことを招くのか??
いずれ人間は思い知ることになるだろう。
 
人間たちの「幸せ」の陰に、
どれほど苦しむ動物がいるかということだ。
どれほど「生」とは懸け離れた生涯を送る動物がいるか。
それを知らない人は、ネットで検索してみるといいだろう。
あるいは「YOUTUBE」で探してみるといいだろう。
どれほど動物たちが非道を受けているかが分かるはずである。
それがどれほど過酷な苦しみであるかが分かるはずである。
異種の命を苦しめてまで「幸せ」を味わいたいのだろうか??
それほどまでに命を苦しめて味わう幸せは、幸せなのだろうか??
たとえば「生きたまま生皮を剥がれる毛皮動物」たちもいる。
死んでからではなくて、生きたまま剥がされるのである。
あるいは生まれてから死ぬまでずっと、
身動きできない狭い檻に押し込められて飼われる家畜たちもいる。
身体を反転させることさえできないような狭い檻の場合もあるのだ。
そこに「24時間365日」押し込められている家畜もいるのだ。
あるいは、死ぬまで地獄の苦痛に耐え続ける実験動物たちもいる。
苦痛の反応を見るのだから、もちろん「麻酔」など無いのである。
生きたまま意識の覚醒した中で、「拷問」を受け続けるのである。
ありとあらゆる地獄の苦痛を、「麻酔無し」で耐え続けるのである。
身体もズタズタだが、心もズタズタに引き裂かれるのである。
それほどまでに異種の命を苦しめて、
それで得られる幸せが「幸せ」と呼べるだろうか??
異種の命が苦しむことを知っていながら享受する幸せは、
はたして本当に「幸せ」なのだろうか??
それで人間は本当に「幸せ」なのだろうか??
 
もし人人が「命は神秘!」だと思うのならば、
もし本当に本心からそう思うのならば、
この世は劇的に変わっていくはずである。
だが「本心」からでなければ、そのままだろう。
問題は「それが本心であるか??」なのである。
それが本心であるならば、この世は必ず変わるのである。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:10:12 ≫