<<程度感覚>>
 
程度を判断する「程度感覚」というものは、
人から教えられて会得できるものではない。
自分でその感覚を磨いていくしかないのである。
「感覚」というものは最も難しい領域だが、
教科書で教えることのできない領域だが、
だが生きる上で「感覚」こそが最も重大である。
それが未熟ならば自分で磨いていかねばならない。
自分で真剣に努力すれば、磨くことはできるのである。
※たとえば「職人」の修業は厳しい。
なぜ厳しいかと言えば、
感覚を会得するための修業だからである。
たとえば「按配:塩梅:あんばい」は、
教科書で学べる領域では無いのである。
だから修業は厳しいものとなるのだ。
 
あるいは「犬を叱る」際の程度感覚。
犬を叱る程度を判断する程度感覚である。
この感覚が未熟な飼主が非常に多いようだ。
教育の過程では、叱る場面も出てくる。
あくまでも「やむなく叱る」ということである。
だがこの「叱り方」こそが難しいのである。
感情に任せて叱れば、飼主失格なのである。
支配者意識で叱れば、飼主失格なのである。
飼主は、それを肝に銘ずるべきである。
それを常に肝に銘じていれば、叱り方も上手くなるだろう。
叱らなくて済むならば、もちろん叱らない方がいいに決っている。
!!そんなことは当たり前の話である!!
そんなことは当たり前の話だが、
「叱らない」ことに固執してしまうと、不自然な事態になってくる。
犬によっては、ほとんど叱らなくても済む場合もあるのだが、
しかし犬によっては、あるいは状況によっては、
やむなく叱って教える場合も出てくるのである。
あまりに「叱らない!」に固執することは、だから要注意である。
その犬の個性を見抜いた上で最善の策を模索するのである。
≪≪これは「人間」の場合でも全く同様のことだと思う≫≫
ところで、もし叱る際には、
常に自分を客観視することが重大だ。
叱っている自分の姿を、
もう一人の自分が後方から観察するのだ。
この自分観察を習慣にすることが非常に重大である。
 
もう15年以上も昔の話だが、
「躾:しつけ」に於いての悲惨な悲劇を人から聞いた。
当時は「絶対に叱らない!」という躾方法が流行っていた。
それは外国から入ってきた躾方法だが、
犬雑誌はこぞって大大的に特集を組んでいたものだ。
ある「自称愛犬家:自称トレーナー」の人物が、
雄の黒ラブを「絶対に叱らない躾方法!」で飼っていたそうだ。
しかしそれは結局失敗して、そして悲劇が起こった。
ある日その人物は、
自分の思惑通りにならないことに怒り狂い、
その黒ラブの頭部を、バットで何度も叩いたそうだ。
黒ラブは重傷を負い、頭部陥没で失明もしたという。
「絶対に叱らない!」というスタイルのはずなのに、
あろうことか、とんでもない虐待に変身したのである。
この話を聞いたとき、怒りと悲しみで目の前が赤く染まった。
そのあまりのバカさ加減が、とうてい信じられなかった。
だがおそらく、これに近い事例も多かっただろうと感じる。
あるいはこの躾方法とは真逆のスタイルも存在する。
徹底的に支配的に圧力で服従させるスタイルである。
こういうスタイルの飼主も、未だに多いのである。
この場合でも、いつかもちろん無理が訪れる。
そもそも理不尽なのだから、それは当然である。
もちろん悲惨な悲劇が起こる確率も相当に高いだろう。
なんでこんなにも「程度」を知らない人が多いのか??
なんで「程度」というものが軽視されているのだろうか??
 
社会はもっともっと、「程度感覚」を重大視すべきである。
さまざまな局面で、この感覚が求められるのである。
あらゆる局面で、この感覚が求められるのである。
この感覚が想像以上に重大なことに、社会は気づくべきである。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:10:10 ≫