<<虐待心境>>
虐待事件が後を絶たない。
死に至る虐待も起こっている。
相手が死ぬまで虐待するということ。
その時の虐待者の心境とは??
11歳の女の子が、
母親から殴られ続けて死んだという。
その歳になれば、簡単には死なないはずだ。
そう簡単に殺せるものではないだろう。
余程のダメージを与え続けたということだ。
両腕で必死に頭を庇う子どもに対して、
なおも無慈悲に殴り続けたようである。
無残に頭骨が砕けていたという。
ゴルフクラブで殴ったというが、たとえクラブで殴っても、
その衝撃はダイレクトに自分の手に伝わっていたはずだ。
子どもの頭骨が砕ける衝撃を、自分の手に感じていたはずだ。
その時の虐待者の心境とは??
必死に許しを請う子どもに対して。
心の底から哀願する子どもに対して。
激烈な痛みの頭を庇う子どもに対して。
頭を庇うその両腕も容赦なく叩き続けたとは。
しかも日常的な虐待だったという。
「いつものように」と告白したという。
はたして虐待者の真の心境とは??
このような事件が、一向に減らない。
今日もまたどこかで虐待が起こっているだろう。
それに対して、社会は何も対策できない。
世間では「正義!」を叫ぶ人が多いが、
正義を叫ぶ人人も、何も対策できない。
逆に「とんちんかん」なことを言う解説者が多い。
的外れな分析で自己満足している解説者が多い。
問題は、虐待者の心境地なのである。
虐待者の心境地を見れなければ、
この問題は一向に解決できないだろう。
虐待者の「子ども時代の境遇」がどうであれ、
それが虐待者の精神構造を形成したとしても、
問題は虐待時の虐待者の心境地である。
それを正面から見なければ、この問題は解決しないだろう。
社会には「虐待防止機関」というものがあるはずだが、
はたして機能しているのか??
そこにははたしてスペシャリストがいるのだろうか??
これは「心の闇の次元」の問題なのである。
ちょっとやそっとの「知識」などでは解決できないのである。
相手の真の心境を見抜くことができなければ、
虐待を防止することなどできないのである。
「協議の結果、親元に帰すことにしました」という判断で、
ついには殺されてしまった子どもも多いはずである。
相手の真の心境を見れないから、そういう悲劇が起こる。
相手の真の心境を見抜く「心眼」が全く欠けているのだ。
虐待防止機関は、その「心眼」を学ぶべきである!!
本気で真剣になって、それを学ぶべきである!!
世の中には虐待者を擁護する人も多い。
虐待者の生い立ちにも同情の余地はあるかも知れない。
だが同情だけでは、解決することはできないのだ。
同情だけでは、虐待者自身の更生も阻むことになる。
もしも本当に虐待者の更生を想うとしても、
同情だけでは「偽善:欺瞞」になると思うのである。
もし虐待者が「学び」の機会を持たずに生きてきたなら、
虐待者に「教えて」あげなければならないのだ。
上辺の同情だけでは、教えることはできないのである。
「上辺の同情」を見せびらかす人が多過ぎると思うのだ。
生きていくには「自制:自律:自戒」が絶対に必要である。
自制自律自戒を知らずにいれば、それは不幸なのだ。
自分の心をコントロールできないということは不幸なのだ。
人から同情されただけでは、自制自律自戒は学べないのだ。
自分が子ども時代に虐待されたからといって、
それがどうにも辛いトラウマだったとして、
だからといって他者を虐待すれば、それは復讐である。
あるいは生活が苦しいからといって、
だからといって他者を虐待すれば、それは復讐である。
その人は憎悪の復讐に生きているということである。
それに同情すれば、その人は幸せになるのか??
それを肯定すれば、その人は幸せになれるのか??
たとえどんなに苦しくとも、
その苦しみを他者に向けてはいけない。
それは筋違いであり、道理に反している。
苦しみを他者に向けた途端に、
その人には莫大な「課題」が生じるのである。
その人自身が本心で悔い改めない限り、
その課題は際限なく延延と続くのである。
人間は慈悲を知るために生まれてきたのだ。
どんなに苦しい時でも他者を想うことが慈悲である。
慈悲に反するということは、最大の背理なのである。
どんなことよりも、それこそが最大の背理なのだ。
誰だって頭にくることはある。
誰だって怒りたい時はある。
思わず平手で叩いてしまうこともあるだろう。
思わず往復ビンタしてしまうこともあるだろう。
だが問題は、その時なのだ。
そのまま延延とエスカレートするか??
我に返って、そこで止めるか??
そこが分かれ道である。
普通ならば、そこで止めるだろう。
だが止められない人がいる。
なぜ止められないのか??
なぜエスカレートするのか??
そこが問題なのだ。
なぜ止められないかが問題なのだ。
このシンプルな問題が軽視されてきたのだ。
あまりに余計な理屈を捏ね過ぎてきたのだ。
これまでも「程度:加減」について書いてきたが、
程度加減とは、想像以上に重大問題なのである。
そこで止められるか止められないか??
そこが分かれ道である!!
ところで世の中は実に極端だ。
ちょっとした言葉にも敏感なくせに、
ハラスメント!だと騒ぐくせに、
凄絶虐待問題には手も足も出ない。
なんでこうも極端なのだろうか??
なかには弱者への暴力に快感を覚える人もいるのだ。
あるいは憎悪の復讐心に支配されてしまう人もいるのだ。
人間にはそういう「心の闇の部分」もあるのだ。
その「心の闇」を正面から見据えていくべきだと思う。
これまで人人は、わざとそこから目をそらしてきた。
だが目をそらし続ければ、永遠に解決しないだろう。
激痛のはてに死んだ女の子。
恐怖のはてに死んだ女の子。
苦しみのはてに死んだ女の子。
悲しみのはてに死んだ女の子。
言語を絶する激痛と恐怖と苦しみと悲しみを想う。
<<南無華厳大悲界 摩訶華厳深冥加>>
ただ一心に冥福を祈る。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:10:06 ≫