<<空手//静動静>>
 
 
上の映像はイタリア松濤館「ルシオ・マウリーノ」先生。
海外では空手精神の探求が熱心なようである。
むしろ日本の人人よりも熱心なように感じる。
今の日本では空手の精神など逆に敬遠される有様なのだ。
中には海外空手の細かい粗探しをする人もいるようだが、
そんなことよりもまず大事なことは、
海外の人人の「空手を知ろうとする気持」だと思うのだ。
その純粋な気持こそが、なによりも尊いと思うのである。
空手に国境など無い。民族の違いも人種の違いも無い。
「空手精神を知ろう!」という気持に国境は無いのである。
「松濤」とは、もともと船越義珍師の雅号であった。
義珍師自身は「無流派主義」を貫いていたが、
その後に松濤スタイルは松濤館流と呼ばれるようになった。
そして長い年月を経て、全世界に伝わっていった。
もともとは空手は「唐手」という字であったようだが、
義珍師が仏教の「空」から用いて空手としたようだ。
おそらく義珍師は最初から禅的意義を考えていたと感じる。
昔昔に人から生前の義珍師のエピソードを聞いたことがある。
その時すでに義珍師は相当な老人であったが、
信じられないほど驚異的な身体能力だったそうである。
身体能力というよりも、それを超えた次元だったかも知れない。
 
「剛柔流:八木明人師」 「松濤館流:中達也師」
おそらく糸東流の「アントニオ・ディアス師」
「映画カラテガール:中達也師」
「松濤館流:鉄騎初段:分解:参考」
 
ご存知のように、受けと攻撃は同時である。
受けてから後に攻撃ではなくて、
受けた時には、すでに相手に入っている。
捌いた時には、すでに相手に入っている。
もしも「逃げの受け」であったら、その瞬間に終りである。
逃げの受けだと、相手の思う存分の好き放題になるのだ。
逃げの受けだと、怪我はさらに大きな怪我になるのだ。
怪我を怖れたばっかりに、さらに大怪我になるのである。
もっと言うならば、受けるというよりも「飛び込め」ということだ。
よく「死中に活!」と言うが、まさにそういうことだと思う。
 
ところで空手論議や武道論議や格闘技論議は盛んだが、
それがどんなスタイルであっても、凄いものは凄いと思う。
たとえスタイルは違えども、凄いものは凄いと感じている。
いつまでも固定観念を引き摺って見ていたら、
見えるものも見えなくなってしまうと思うのである。
凄いものは凄い!美しいものは美しい!と思うのだ。
その奥に隠された途方も無い基本鍛錬が見えるから感動する。
その奥に隠された揺ぎ無い鍛錬基本が見えるから感動する。
※「静動静」・・・「静中動 動中静」のことである。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:10:03 ≫