<<華厳菩薩>>
人人はよく「覚り」について論じるが。
「覚り」をどのように見ているだろうか。
「覚り」が最終目標だと想像するだろうか。
「覚り」はただの寂滅境だと想像するだろうか。
あるいは漠然と「ワンネス」を想像するだろうか。
華厳経に菩薩の境地が説かれている。
華厳菩薩の境地は壮絶である。
「覚り」に到達すればするほど、
途轍もなく過酷で壮絶な覚悟が求められる。
それは当然の話である。
覚れば覚るほど、他者の境涯を実感するからである。
あらゆる他者の心境を、我が心で実感するからである。
あらゆる他者の苦しみを、我が身で実感するからである。
「覚る」ということは、そういうことだと思う。
人人は簡単に「無我ワンネス」と言うけれど、
もし本当にそこに到達したならば、
途轍もなく壮絶凄絶の人生を突き進むことになるはずだ。
なにしろ今生では「肉体を纏っている」のである。
肉体を纏った状況で覚るということは、
すなわち即座に壮絶凄絶な人生に突入するということだ。
「自分とは何か?」とか。「人間とは何か?」とか。
そんな余裕思考の次元とは全く異次元の世界に突入するのだ。
そういうことを覚悟して人人は「覚り」を求めているだろうか。
余裕綽綽で寂滅境やワンネスを語る人人に問いたいものである。
人人は「覚り!」と言うけれど、問題は「覚ってどうする?」かだ。
そもそもいったい、覚ってどうするのだ??
「はい覚りました!素晴らしい境地です!幸せ幸せ!」
それでは覚りの入口にも立っていないと思うのである。
佛の世界の慈悲というものは「同体慈悲」のことである。
その者と一体となる慈悲のことである。
その者と一体となれば、どういうことになるか??
それは誰でも、想像すれば分かるはずである。
「その者」というのは、人間だけのことではない。
たとえば地球に生きる全ての異種の命たちのことである。
その全ての命の境涯を我身我心で実感するのである。
それを実感すれば、どういうことになるのか??
それは誰でも、想像すれば分かるはずである。
華厳経では、佛は海印禅定に入ったままで無言である。
そこはもはや言葉の到達できない世界だということだ。
佛に代わって菩薩が語る。涙して絶叫する菩薩もいる。
あらゆる命と同体した菩薩の絶唱が大宇宙にこだまする。
あらゆる命の痛みと苦しみと悲しみを、
華厳菩薩は我身我心で同体しているのであった。
私はよく菩薩の夢を見る。
白衣の菩薩が傷ついた命を涙して抱擁している光景だ。
そのとき菩薩は、その命と全く同じ痛みを分かち合っている。
どれほどの痛みか。どれほどの苦しみか。どれほどの悲しみか。
これまで何度もこの映像を紹介した。
映画「JCS」のゲッセマネの歌である。
バルサモの絶唱に胸を打たれる。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:09:29 ≫