<<巷の仏教案内本>>
近頃は書店のみならず、コンビニでも「仏教本」を見かける。
意外にも仏教に興味を抱く人が多いのだろうか??
それで「仏教入門・・」の類の本が出版されているのか??
一応はパラパラと読んでみるのだが、いつも「???」である。
どれもこれも、結局は仏教について何も書かれていないのだ。
それこそ、観光案内のガイド本のようなレベルの内容である。
とにかく最も肝心な「教え」については、何も書かれていない。
これでは仏教を知ろうにも、片鱗さえも知ることはできない。
そしてもうひとつ気に掛かることがある。
ガイド本なのに読者に誤解を与える部分を持つということだ。
大抵の本に「五時教判」という用語と簡単説明が出てくるが、
これは仏典判断に大きな影響を与える概念なので、
本来なら迂闊に紹介することなどできないはずなのだ。
これは六世紀に中国天台大師の用いた概念である。
天台大師は法華経に帰依していた高僧であるが、
当然ながら法華経者の立場で五時教判を語ったのである。
あくまでも法華経者の立場で語られた判断であるのだが、
世間はそれを「仏教の判断」だと思い込んできたようだ。
仏教経典は、それぞれに重大な使命を秘めている。
それぞれの経典が、それぞれの意義を秘めている。
だが五時教判だけで仏教を判断してしまう人は、
「それぞれの経典の意義」を著しく無視することになる。
どうしても先入観と偏見の目で経典を見ることになる。
それは自らの世界観を狭めることになるだろう。
そして排他性ばかりを育てることになるだろう。
だから「教判:教相判釈」に囚われることは要注意なのだ。
「純粋にその経典を見つめる自然体!」が重大なのである。
純粋に「そこに何が説かれているか?」を読むことが重大なのだ。
「経典の優劣の論議」ばかりに没頭したら本末転倒なのである。
そんなところに没頭すれば、どんどん仏道から懸け離れてしまう。
それなのに未だに安易に五時教判を紹介する仏教本は、
そもそも仏教をまるで分かっていないということだ。
経典というのは、いろんな説き方で説いている。
それぞれの説き方で読者に勇気を与えている。
それぞれの説き方で読者を叱咤激励している。
不安を抱く人人に、迷いの淵に彷徨う人人に、
「これを信じれば大丈夫なんだよ!」と強烈に励ます経典もある。
迷える人の背中を強烈に後押しするスタイルの経典もあるのだ。
そういう叱咤激励で励まされる人人もいるのである。
それぞれの機根に応じて、それぞれの時機に応じて、
臨機応変にそれぞれの経典が人人を導いたのである。
だがそれを知らずに教相判釈に囚われれば本末転倒になる。
他宗を誹謗するような排他性を育てることになる。
そうなれば、どんどん仏道から懸け離れていく。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:09:16 ≫