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「手綱:リード」で犬と散歩する時。
手綱に命を吹き込む意識で散歩する。
手綱を通しての犬の反応は、
犬によって千差万別であり、
百頭いれば百頭異なる反応である。
一頭たりとも、同じ反応の犬などいない。
だから手綱に命を吹き込む意識で散歩する。
手綱が「死んだ」状態だと、犬と交信できない。
だから常に手綱を、「生きた」状態にしておく。
手綱が自分の身体の延長であることを忘れない。
たとえば「手綱を赦す」「手綱を張る」「手綱を締める」など、
そこには様様に微妙なニュアンスが隠されている。
あるいは「手綱を握る感覚」もまた、犬に伝わるのだ。
その「指感覚:拳感覚」も、非常に重要なのである。
「ただ握っていればいい」というものでは無いのだ。
特に街中では、手綱は文字通りの「命綱」となる。
手綱が犬の安全を護る唯一の命綱となる。
それは拘束の綱ではなく、命綱となるのだ。
だからこそ「生きた手綱」であることが重大である。
それを日頃から意識していくことが肝心である。
そして特に街中では、周囲との「間合い」が重大となる。
この「間合い:距離感」に無頓着な飼主も多いようだが、
それは想像以上に危険な状況だと知るべきである。
犬は、その人の持つ「気配」を、鋭くキャッチする。
犬たちは、何気なく無意識に、それをキャッチしている。
だから散歩する人によって、犬たちの行動は変わる。
人によって、散歩の時の犬の姿が変わる場合が多い。
これは、犬たちが「ずる賢い」という意味では無い。
彼らに邪な他意など無いのであり、
ただ本能の直観で判断しているだけなのである。
彼らは無意識に自然体で、
その人の姿勢と挙動と気配を見抜いているのだ。
だから犬と上手く散歩するには、それこそが重大なのだ。
「姿勢と挙動と気配」こそが、最も重大なのである。
手綱スタイルは、人によって様様だ。
手綱の握り方も操作も、いろいろである。
ハンドラーにはハンドラーのスタイルがあり、
訓練士には訓練士のスタイルがある。
そして飼主には飼主のスタイルがあるだろう。
しかし「手綱に命を吹き込む」基本は同じはずである。
ところで市販のリード手綱の種類は、いろいろある。
そしてその長さも、いろいろある。
状況によって使い分けるということだ。
私は市販も使ったが、日常では手作り手綱を使用した。
手作りと言っても、綱を利用して作るだけの話だ。
「長さ」は幾種類か作るが、通常は「2・5m」くらいを使う。
もちろんそれを短く畳み込んだり長く延ばしたりして散歩する。
その長さを、素早く自由自在に変化させて散歩するのである。
※私は山に棲んでいるからこの長さで散歩するが、
もしも街中だったら、もう少し短い手綱で散歩するだろう。
たかが「犬の散歩」と思う人がいるかも知れないが、
犬の散歩を本気でやるなら、それは飼主の全身運動である。
手の指先から足の爪先まで、身体の全てを起動させるのだ。
手指。手首。肘。両肩。首。背中。腰。両膝。足首。足指。
その全てを起動させて全身で散歩するのである。
それが本来の「犬の散歩」のはずである。
だから犬の散歩を真剣に行なう飼主は健康のはずである。
健康器具に頼らずとも、ジム通いなどしなくとも、健康のはずである。
だが意識を弛緩して、だらだらと散歩しても、効果は著しく薄いだろう。
これまで、おそらく二十万キロくらいを散歩してきた。
自転車バイクでの運動もあったから、
徒歩での距離はその半分くらいだろう。
自転車バイクの時でも、手綱操作は基本的に同じである。
ただし徒歩の時よりも格段に注意を要する。
そして特に上半身の力が必要になる。
もちろん下半身の力も必要だが、
それが本気の運動ならば、特に上半身の力が不可欠となるのだ。
それが「動きの素速い強力な大型犬」の場合は、なおさらである。
なにしろ片手でハンドルを握りながら片手で制御するのだから。
そして犬を「絶対に」車体に接近させないように制御するのだから。
そしてハイスピードの状況でも、自在に制御していくのだから。
だから徒歩での手綱操作の基本の徹底が最低限に必要であり、
その基本無しに自転車バイク運動に移行することは無謀である。
リード手綱とともに、首輪カラーも、いろいろ市販されている。
その犬の個性に適した首輪であることが重大である。
≪チョーク・カラー≫という、「引くと締まるタイプ」もある。
完全チョークのタイプと、限定チョークのタイプがある。
頭部の小さい犬に関しては首輪抜けする場合があるから、
そういう場合には「限定チョークタイプ」は有効かも知れない。
「チョークチェーン」に関しては、いろいろと論議されている。
「操作次第の問題だ・・」という意見が多いように感じる。
チョークチェーンでなければ不安を覚える飼主も多いようだ。
ただひとつ言えることは、
チョークチェーンを使わずとも犬を制御できる人はいる。
それを使わずとも、それと同等以上に制御できる人はいる。
「道具」は、段階の過程に於いては必要な場合はあるだろうが、
それはあくまで「段階の過程」であることを知っておくべきである。
そこにもし「道具」が無い状況だったら、どうするのか??
たとえ道具が無くとも制御できるように心構えしておくことが重大だ。
常日頃から、その心構えが必要なのである。
それがその人の「技量:力量:実力」を高めていくのである。
道具に頼る依存心は、その人の成長を妨げていくのである。
これまで幾多の犬種を散歩運動してきた。
身体も精神も様様な個性の犬たちであった。
たとえば英マスティフもブルマスティフもいた。
グレートデンもバーナードもドーベルもシェパードもいた。
ピットブルもブルテリアもハスキーも日本犬もいた。
ボルゾイもポインターもゴールデンもいた。
純FTの黒ラブラドルもフラットコーテッドもいた。
そして狼も狼犬も北極エスキモー犬もいた。
あるいは様様な「MIXDOG」たちがいた。
しかし手綱散歩の「基本」は同じであった。
その「基本」を変幻自在に臨機応変していくのである。
この「臨機応変」が、非常に重大なのである。
この「臨機応変」を知らないと、いつか限界が訪れる。
その犬の個性に適した「段階過程」を踏めずに、
やたらと早急に無理難題を犬に押し付けて、
ついに限界を迎えることになるのである。
そういう飼主が多いように感じるのだ。
そこでプロに依頼する場合もあるだろし、
あるいは「飼い殺し」状態になる場合もあるだろうし、
あるいは「飼養放棄」になる場合もあるだろう。
だが本当なら、飼主は自分が努力して勉強すべきなのだ。
自分で自分を鍛えて、その犬を飼えるようにすべきなのだ。
その努力を最初から放棄している飼主も多いように感じる。
犬たちも彼らなりに、飼主と共生しようと努力しているのだ。
だから飼主の方も、その努力を惜しんではならないのだ。
人と犬が暮らすには、互いの努力が必要なのである。
まずは「散歩」が、重要な課題である。
犬と暮らすには、それは避けて通れない。
ひと口に「散歩」と言っても、いろんな種類の散歩がある。
先導させる散歩もある。側脚の散歩もある。
ある程度は自由にさせるリラックス散歩もある。
自転車バイクの場合には、いろんな走法を織り混ぜる。
いろんな走法を織り混ぜないと、運動効果が偏るからだ。
そのように、いろんな散歩があるのだが、
固定観念に縛られて散歩する飼主も多いようである。
終始一貫「ヒール!側脚行進!」に執着する人もいる。
近年はネットなどで断片的情報を鵜呑みにする人もいる。
そういう飼主は、その現場を見れば一目で分かる。
「自然体」から程遠いから、一目で分かるのだ。
飼主の挙動も精神気配も「ぎくしゃく」している。
そして犬は「義務感」だけで動作している。
そこには自発的な「生き生き」が無くなっている。
それは本来の「散歩」とは懸け離れていると思う。
散歩とは支配ではなく、対話なのである。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:09:04 ≫