<<山の雷>>
 
昨日は一日中、雷鳴が轟いていた。
ここはなにしろ山だから、雷が凄いのだ。
物凄い迫力の音響が、一日中続いたのだ。
なにしろ雲に近いから、迫力も凄いのだ。
 
昨日に限らず、ここは雷の多いところだが、
我家の大勢の犬達のほとんどは平気である。
普通に静かに落ち着いている。
我我は激しい雷雨の最中でも運動に出掛けるが、
脅えた様子など微塵も見せない。
だがそれが犬舎の中だと、興奮する犬もいる。
おそらく「囲われた状況」に不安を覚えるのだろう。
だから外に出すと、落ち着きを取り戻すのだ。
しかし犬舎の中でも落ち着いてもらう必要がある。
他の犬達の安息に迷惑を及ぼすからである。
だから私は犬達の前で見本を見せてきた。
犬達は私の一部始終を見ているからである。
私の心境と挙動の全てを見ているからである。
だから彼らに見本を見せてきたのである。
普通に静かに平然としている姿を見せてきたのだ。
だから「興奮する犬」も、以前よりは随分と図太くなった。
だんだんだんだん、徐徐に変わってきたのである。
 
私は犬達に、不安を煽るような慰め言葉は掛けない。
そういう言葉と雰囲気は、解決策にはならないからだ。
その犬の将来のための解決策にもならないからだ。
その犬自身の今後の安全のために、
徐徐に胆力を育てていかねばならないのだ。
もちろん「大丈夫だよ!!」くらいは声掛けるが、
時には抱え上げて力強く抱き締めたりもするが、
それ以上の余計な慰め言葉は掛けないようにしてきた。
あとはひたすら、見本を見せてきた。
そして犬達は、私の姿を見つめてきた。
野性の犬の「ボス」も、そうなのである。
犬のボスは、そうやって群れを教導するのだ。
己の実践の姿を見せて群れを教導するのだ。
犬達は、いつも真剣にボスを見ているのである。
ボスから感化され、ボスから影響を受けていくのだ。
そうやって群れは逞しくなっていくのである。
 
もし過剰に興奮する犬がいたら、
裂帛の気合を掛けることもある。
それは決して「怒った気合」ではない。
それが怒った気合では無いことが、犬達には分かるのだ。
雷鳴よりも烈しい気合で、彼らを叱咤激励するのだ。
彼らは私の気合で、逆に安心を覚えるのである。
興奮した犬は、我に返って冷静さを取り戻すのである。
犬達は余計な迷いを振り切って自分を取り戻すのである。
時には、そういう手法も必要な場合があるのだ。
ただし、いい加減な気持だと、全く意味が無くなってしまう。
渾身の気迫を振り絞ってこそ、そこに意味が生まれるのだ。
その犬を心から想えばこそ、その犬の心に伝わるのだ。
雷鳴よりも烈しい気合は犬達の心に響き、
彼らは「強く生きる」ことを改めて再確認する。
私が仕事などで森を留守にする間は、
犬達だけで留守番する訳だから、
犬達自身の安全のために、
動揺せずに落ち着いていてもらわねばならない。
それは我家で最も重大な課題なのだ。
そのために日頃から「胆力」を育てていく。
そして犬達は立派に成長してくれた。
 
※ただし生来的に極度に脅える犬も存在する。
雷や花火などで「パニック」に陥る犬もいる。
そういう犬の場合には厳重注意である。
住居が街の場合には、とりわけ厳重注意である。
もし家から脱走すれば、外は完全に危険地帯なのだ。
パニックはさらに加速して、どうにもならなくなる。
極度に脅える理由は様様だろう。
それを特定することは難しいと思う。
いずれにせよ、とにかく「怖い!」のである。
そういう犬の場合には、とにかく厳重注意である。
それが庭での「係留飼い」の場合には、なおさらである。
「係留」の状況では、思わぬアクシデントが起こるからだ。
だからせめてそういう時には、家の中に入れてあげて欲しい。
余裕のあるケージを用意すれば、それができるはずだ。
そして時どき、その時のために備えて、
その予行練習をしておくべきだと思う。
予行練習は、非常に重大である。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:08:18 ≫