<<犬との対話//対話境地>>
犬と本気で暮らすには、
犬と対話できなければならない。
どんなに「犬の操縦方法」を研究したところで、
犬と対話できなければ「犬と暮らす」ことはできない。
コントロールテクニックを知ることも必要だが、
それは「ごくごく一領域」に過ぎないことを心得るべきだ。
そして全ての根幹は「対話」であることを心得るべきだ。
犬種によって。雌雄によって。月齢年齢によって。
あるいは、その時の犬の事情によって。
あるいは、その時の犬の立場によって。
そしてそれぞれの「個性」によって。
そういったものによって、犬の心境は千差万別なのだ。
そういったものによって、犬の反応も千差万別なのだ。
様様に色色に千差万別なのだから、
「枠に囚われた方法」に無理が訪れることは明らかだ。
そして無理を押し通そうとするから、限界が訪れる。
そして様様な形の悲劇が起こってくる。
だからこそ、とにかく「対話」が重大なのだ。
対話できれば、臨機応変に対応できるのである。
だがその「対話」というものが難しい。
簡単に言うと、対話の境地に入ることが難しいのだ。
「異種の命と対話する境地」に入ることは難しいのだ。
だからその境地に入るための参考を書いてきたつもりだ。
たとえば華厳仏教の話も野性禅の話も、
「異種の命との対話」に直結する話だったのである。
その領域を抜きには、動物との対話は語れないのである。
動物との対話とは、その領域の元に成り立つのである。
※その領域に馴染んでいない人には、
読むこと自体が難しかったかも知れないが、
思想哲学宗教の書物の文章よりは読み易いように、
できるだけ読み易いように書いてきたつもりなのだ。
ただし要点だけを書いてきたので、
その前後の説明は相当に省いてきたので、
おそらく読むには集中力が必要だと思う。
深い領域を短く圧縮した表現で書いてきたので、
そこら辺を念頭に置いてくださればと願う次第である。
ただし対話境地を練磨すると同時に、
「技量:力量」も鍛錬していかねばならない。
そのどちらもが必要なのである。
どちらが欠けても「犬と暮らす」ことはできないのだ。
そしてその両者は、常に相関しているのである。
因みに「技量」の領域に於いては、
巷では様様な手法が紹介されているから、
その様様な情報の中で混乱する飼主も多いようだが、
飼主自身の対話境地が練磨されていけば、
自ずと「自分のスタイル」が形成されていくはずだ。
それは自然に、そうなっていくはずである。
技量領域で悩んだり迷ったりする人は多いようだが、
自分自身の対話境地が練磨されていけば、
余計な雑音に惑わされることは無くなるはずである。
自然体で犬と暮らせるようになるはずである。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:08:17 ≫