<< 飼主真情 >>
犬を飼育放棄する人が多い。
飼育放棄を考えた時点で、その飼主には愛情など無い。
愛情があれば、決してそういう発想は湧かないはずだ。
たとえどんな事情が発生しようとも、
飼育放棄する発想は湧かないはずである。
私は過去に、そのような飼主を見てきた。
そして真剣に事情を聞いてきた。
そしてその人たちの真情を察知した。
もはや愛情の無いことが、ありありと分かった。
だから飼主に「考え直してください」とは言わなかった。
愛情の無い飼主に飼われる犬の境遇が、
それがどういう毎日なのかが明らかだからだ。
その犬の生活は延延と、
今まで通りに辛く苦しいだけの毎日になるのだ。
だから引き取って我が家族に迎えてきた。
我が人生は、どんどん苦境に追い込まれていった。
断崖絶壁の綱渡りの年月が延延と続いた。
いつも精神はギリギリの土壇場に置かれた。
そうなることは、最初から分かっていた。
分かっていたが、見て見ぬ振りはできなかった。
彼らは、この私の家族になりたいと願ったのだ。
彼らの願いを聞き捨てることはできなかったのだ。
なんで一頭二頭の犬が飼いきれないのか??
なんで一頭二頭の犬を幸せにできないのか??
おそらくほとんどの飼主は、私より裕福である。
私より困窮している人は滅多にいないはずである。
それなのに、手に余ると言って放棄する。
あるいは散歩が大変だからとか言い訳する。
たかが一時間くらいの散歩さえ、なんで苦労なのか??
たかが一頭二頭の散歩が、なんで面倒臭いのか??
それがどんな超大型犬でも言い訳にはならない。
力の強い犬ならば、飼主は自分を鍛えればいいのだ。
飼主は自分の主導力を練磨していけばいいのだ。
あるいは「ちっとも懐かないから」とか言い出す。
あるいは「言うことを聞かないから」とか言い出す。
一頭二頭の犬を馴致できないはずが無いのだ。
相当に頑固で強情な犬でも、
愛情を惜しまなければ対話できるはずなのだ。
だがそのような飼主が、想像以上に多いのだ。
もしも飼育放棄されなくとも、犬は不幸である。
死の時まで、ただただ忍耐の毎日が続くのである。
そのような境遇の犬が、無数にいるはずである。
彼らは、主人に愛情の無いことが分かっている。
彼らの絶望的な孤独が、この胸に突き刺さる。
しかし今の私には、どうにもならない。
今の家族たちを支えていくだけで精一杯である。
だからただただ、全霊で祈っている。
この山から、渾身の祈りを捧げている。
「藤田美千子さん」という動物保護家がいる。
おそらく今では、かなりの御高齢だと思う。
昔昔に、確か電話で話したことはあったが、
とてもとても清らかな精神の人だと記憶している。
藤田さんは日本の動物保護の草分けの人だ。
今では藤田さんを知っている人は少ないと思われるが。
藤田さんの人生は、まことに壮絶だ。
今の世間の感覚から見れば理解し難いだろう。
愛護家と呼ばれる人たちにも理解され難いだろう。
「常軌を逸した保護」だと批難されるかも知れない。
だが藤田さんの精神力は、尋常ではなかったのだ。
藤田さんはとうとう、崩壊させずに頑張り通したのである。
そしていかなる迫害や誹謗中傷にも屈しなかったのである。
それにしても、この菩薩のような人を、
世間のみならず愛護関係者たちまで迫害したとは。
日本社会がいかに動物に対して非情だったか分かる。
藤田さんの活動について書かれた本を昔に読んだが、
それはとても素朴な本だったが、胸を打つドラマだった。
藤田さんが、確かこう語っていた。
息を引き取った不幸な犬に、
「もうこんな薄情な人間世界に生まれるんじゃないよ・・・」
「いいね・・・わかったね・・・・・」
と語りかける場面があったことを憶えている。
ほんとうに、そうだと思った。
藤田さんの悲しみの義憤に涙があふれた。
その本は著者が岡庭桜子さんの「ワンニャン物語」である。
今も刊行されていればいいのだが。
昨日ちょっと調べたら、もう一冊出版されていた。
これは藤田さんが書いたようだが、
「あなたたちのお母さんは私よ!」という本である。
この本は、まだ読んでいないのだが、
近いうちに、ぜひとも読みたい。
藤田さんの活動は、理解され難いと思う。
だが藤田さんのような人がいたからこそ、
だからこそ「今の愛護意識」が育ったのだと思う。
今は愛護世界でも「分相応」ということが強調されるが、
「無理の無い範囲で常識的な活動を」と強調されるが、
そんなことは誰だって分かっているはずだが、
誰だって自分が苦しむことなど避けたいはずだが、
それを承知で身を挺して挺身保護に生きた人がいたから、
だからこそ「今の愛護」が成り立っていることを、
それだけは忘れないで欲しいと思う。
はっきり言って誰もが「分相応」で賢く世渡りしたら、
おそらく世間の愛護意識は高まることは無いだろう。
なぜなら、そこには血に染まった情熱が無いからである。
世の中の意識を変える力を持つのは、
血に染まった慟哭の情熱だけなのだ。
人間社会は、「共生!」と謳う。
人間社会は、「地球の仲間たち!」と謳う。
だが最も身近な犬という動物さえ理解できずに、
それでなんで野生動物や大自然のことが分かるというのか??
あるいは家畜たちの心境さえ理解できずに、
それでなんで野生動物や大自然のことが分かるというのか??
世間の飼主たちの真情が、
それがそのまま今の社会の「共生観」だろう。
世間の飼主たちの真情が、
それがそのまま今の社会の「地球観」だろう。
なぜならすべては、根本で通じているからである。
もし真に犬や家畜たちのことが理解できたなら、
野生動物のことも大自然のことも理解できるはずなのだ。
地球は、あらゆる種の命たちの協力で成り立っている。
人間だけでは絶対に生きられないことが明らかだ。
それはもはや世界の常識のはずである。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:07:25 ≫