<< 荒涼世界 >>
この森で心観森羅に入れば、
人間世界のざわめきも聴こえてくる。
ざわめきと言うか、騒騒しさである。
それは躍動ではなく、騒騒しさである。
それは大自然の躍動とは全く異質である。
それは大自然の烈しさとは全く異質である。
人人は「平和」を求めていると言う。
だが平和を求めていると言う割には、
その心境が騒騒しいように感じてならない。
常に何かを比較しているように感じる。
常に何かと敵対しているように感じる。
根本を無視して比較と敵対に情熱を注いでいる。
人間世界は強欲と憎悪と敵対意識に満ちている。
人人は、いつも「敵」を探している。
「敵」を攻撃することに執念を燃やしている。
人人は口先では「対話」を謳いながら、
実際には対話など求めていないようだ。
相手を否定することばかりを考えている。
相手を屈服させることばかりを考えている。
だから対話を装っても、対話など成立しない。
だからいつまで経っても、解決が見えてこない。
いつまで経っても、際限なく闘争が続くだけである。
どうして「敵対」という呪縛から逃れられないのか。
どうしてニュートラルな自然体になれないのか。
人間は口先では対話を謳いながら、
実は闘争を求めているように思えてならない。
いつも攻撃の標的を探しているように思えてならない。
対話というものは、双方の了解が必要である。
その双方が対話意識を持たなければ、
対話というものは成立しないのである。
どちらにも言い分がある訳だから、
お互いに相手の言い分を聞くのが前提条件なのだ。
だが片方が聞く耳を持たなければ、
そこですでに対話は成立不可能なのである。
世界中が、そのような事態に満ちているのだ。
もし仲裁者が登場したとしても、
片方が耳を塞げば、仲裁も不可能なのだ。
もし和解を願う人がいたとしても、
聞く耳を持たない片方を説得できなければ、
双方ともども対話姿勢に入らなければ、
とうてい和解には向わないのである。
片方だけが対話姿勢に入っても解決しないのだ。
「双方ともに対話姿勢に入る」ことが解決条件なのだ。
だが人間は、それが非常に苦手のようである。
いつまで経っても「宥和」というものを知らないままだ。
だから世界中で、紛争が際限なく続いている。
これは政治の問題を超えた領域だ。
これは人間の「意識」の問題なのだ。
口先で平和を叫ぶのは簡単だが、
平和の根本が「何によって」もたらされるかを、
それを知らなければ平和など実現しない。
平和には、双方の意識の進化が必要なのだ。
双方の意識というのは、つまり人間全体の意識である。
人間全体が意識を進化させなければ、平和は成されない。
国によって民族によって、倫理も道徳も違うだろう。
そういう事情の中で、どうやって対話していくのか。
平和を唱える者は、対話を唱える者は、
そこら辺をどう考えているのだろうか。
ただ「戦争反対」と唱えるだけでは、
それではあまりにも中途半端だと思うのだ。
人間全体の意識にまで迫らなくては、
平和論者として全く未熟だと思うのである。
人間に潜む嫉妬や憎悪や強欲をどうするのか。
排他意識や支配意識や攻撃意識をどうするのか。
それらは、どんな立場の人間にも潜んでいるのである。
その根本の問題を考えなくては話にならないと思うのだ。
それは立場の領域を超えた、人間全体の問題なのだ。
森で心観森羅に入っていれば、
そういう人間世界の光景も現われる。
人間世界は著しく荒涼としている。
人間は異種生命と宥和できないばかりか、
人間同士でも宥和できない様子である。
なぜ人間は宥和が苦手なのか。
実は「意識」は、一瞬で変えることができる。
意識は一瞬で変えることができるのだが、
「変えよう!」という意志が無ければ変わらない。
そこに「意志」が無ければ、変わらないのである。
つまり意識の変革は、その人間次第である。
その気になれば、意識は一瞬で変わるのだ。
もし宥和に目覚めれば、全てが変わっていくはずだ。
新たな世界に踏み入ることとなるはずだ。
ほんとうは、今すぐにでも、それが可能なのである。
その気になるかならないか、それだけなのである。
だが敵対が好きならば、もはやどうにもならない。
世界はそのまま、その方向に進んでいくだろう。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:07:25 ≫