<< 自力他力 02 >>
前記事の「自力他力」は、
世間で使われる自力他力の概念とは違う意味だ。
たとえば「他人任せ」とか「努力放棄」の意味では無い。
宗教論議で語られる自力他力のことを書いたのだ。
だがほんらい仏教には自力他力という概念は無い。
仏教にはそういう言葉も無かったはずである。
仏教に「自燈明 法燈明」という言葉がある。
「「宇宙法界の真意を羅針盤として、
周囲に惑わされることなく己の足で歩いていけ!!」」
「「孤独を怖れずに法界真意を信じて己の足で歩いていけ!!」」
というような言葉だと思うが、ここには自力も他力も無い。
法界真意は、己の深くに潜んでいる。
だから本当は法界真意は己の深奥である。
自燈明は法燈明であり、法燈明は自燈明である。
だから自力と他力の概念を超えた領域である。
だがこの今生で、歩くのは自分である。
自分が歩かなければ一歩も進めない。
自分で歩かなければ命の本義から離れてしまう。
「今生で学ぶ」という命の本義から遠ざかってしまう。
いくら法燈明が「こっちだよ!」と照らしてくれても、
いくら己の深奥が「あっちだよ!」と叫んでも、
自分の足で歩くことをサボったら、どうにもならない。
その人は自分自身でそれに気づくまで、
果てしなく延延と彷徨うことになってしまうだろう。
ただし自分の足で歩くと言っても、
それは「自燈明 法燈明」を心得た上での話である。
それを心得ていなければ、やがて迷走暴走となる。
どんどん本題から遠ざかっていくことになる。
≪≪ 三 界 唯 一 心 心 外 無 別 法 ≫≫
≪≪ 心 仏 及 衆 生 是 三 無 差 別 ≫≫
≪≪ 華 厳 経 ≫≫
ただひたすらに「阿弥陀仏の本願を信じる」信仰もあるようだ。
阿弥陀仏の本願とは「衆生済度」のことだと思うが、
それを信じることしか救われる道は無いということらしい。
その信仰の心境は私にはよく分からないのだが、
「なんとしてでも仏に救われて浄土へ!」と願うのだろうか。
「人間は絶対に自力では救われない」ということだろうか。
「人間はどうしようもない」「人間に自力など無い」ということだろうか。
まずそれを自覚することが重大であり、
だからその意味で「悪人」こそが浄土に行けるということらしい。
だが思うに、「浄土に!」と願う時点で、その人は真面目である。
もし本当の悪人がいたとして、「浄土に!」と願うだろうか。
おそらく「浄土に!」などという心境にはならないだろう。
「至上の清浄界」に憧れる心境などにはならないだろう。
そういう葛藤に苦しむならば、そもそも悪人とは呼べない。
どこまでも徹底的に強欲快楽に浸るのが悪人だと思うのだ。
浄土に!と願う人は、つまり真面目だと思うのだ。
真面目だから、浄土に!と願うのだと思うのである。
だからわざわざ悪人を自称する必要など無いと思うのだ。
そこら辺が、どうも不自然に感じるのである。
己の深奥が仏の本願に呼応するからこそ葛藤が湧くのだと思う。
己の深奥と仏の本願が一体となるからこそ信仰だと思うのだ。
そこでわざわざ己の深奥を否定する必要など無いと思うのだ。
わざわざ「目指す!」ことの尊さを否定する必要も無いと思うのだ。
仏を深念した瞬間に、自力他力の領域を超えると思うのである。
余計な思考を捨てて自然体で臨むのが信仰だと思うのである。
海音寺潮五郎の短編に、
阿弥陀仏に逢いに行く男の話がある。
荒くれ武者の男である。
どうにも乱暴者だった男である。
その男がある日、僧侶から阿弥陀仏の話を聞く。
その男の心に、なにかが燈された。
その男は居ても立ってもいられずに、
西方の阿弥陀仏を探しに旅立つ。
山を越え谷を越え、ただひたすらに突き進む。
「阿弥陀仏よや!おーーーーい!おい!!」
「阿弥陀仏よや!おーーーーい!おい!!」
阿弥陀仏の名を呼びながら、
ただ一直線に山を越え谷を越え歩き続けた。
「救われたい」と願ったのではない。
ただただ「尊いもの」に逢いたい一心である。
ただただ、逢いたい一心だったのだ。
男はとうとう、海に辿り着く。
断崖絶壁に立つ一本の松の木に登って、
男は海の彼方の西方の空を仰ぎ見ていた。
男を心配した僧侶たちが、ついに男に追いついた。
男が「何日か待ってくれ」と言うので、一旦は引き揚げた。
数日後にもう一度訪れると、
男は目を見開いたままに息を引き取っていた。
男はとうとう、阿弥陀仏に逢ったのである。
僧侶は、西方の空を仰ぐ男の姿に慟哭した。
「ああなんと・・・厳かなものが身体一杯に満ち満ちて・・・・」
「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏・・・・」
記憶を辿って書いたが、このような話である。
荒くれ武者の、尊いものへの一心に、
その無骨な純真無垢に、涙がとまらなかった。
そこには「救われたい」という願望さえも無かった。
それはただ尊いものへの純粋な一心だったのだ。
そして男の心は、阿弥陀仏と一体となったのだ。
≪≪ 三 界 唯 一 心 心 外 無 別 法 ≫≫
≪≪ 心 仏 及 衆 生 是 三 無 差 別 ≫≫
あるいは近ごろ、やたらに「あるがまま!」を強調する人も多い。
「人はすでに完璧だから、そのままを全肯定しなさい!」と説く。
近ごろ流行の「精神世界」の人たちが盛んに説いているようだ。
「そのままで全てOKなんだよ!!」と説く人も多いようだ。
これもまた、極端な発想だと感じてならない。
それだと「目指す!」という姿勢が軽視されるようになるだろう。
「目指す必要なんか無い!」と誤解されることになるだろう。
もちろん、「個性」は無限に尊い。
全宇宙の誰もが「唯一無二」である。
全ての誰もが「天上天下唯我独尊」の尊さである。
そしてまた全ての誰もが、「心の深奥」を秘めている。
だが「心の深奥」は法界真意だとしても、
今生の現実では人は身体を着て生きているのである。
その実生活で人は「深奥心」で生きているだろうか。
「なかなかそのようには生きられない」のが実情のはずだ。
だから「あるがまま!」と同時に「あるべき姿!」である。
あるがままを了解しながら「あるべき姿」を目指すのである。
だから「あるがまま」だけでは半分しか説いていないのだ。
それだけでは、半分なのである。
たとえば野生界の野性たちは、「あるがまま」を知っている。
だが彼らはそれを知っていると同時に、
それと同時に「あるべき姿」を目指し続けている。
彼らは常に、全身全霊で頑張り続けるのである。
そこには頑張らない命など一頭たりともいないのだ。
彼らは正真正銘の命懸けで頑張り続けるのである。
「あるがまま」とは、常に「あるべき姿」と直結している。
「あるがまま」の実像とは、途方もなく壮絶なのである。
だがそこには真の「自由自在」が舞い降りるのである。
命は本来の自由自在な姿に光り輝くのである。
あるいは自分に自信の無い人がいたとする。
コンプレックスに苦しむ人がいたとする。
「あるがままでいいんだよ!」とアドバイスしたとする。
一時の慰めとしては効果があるかも知れない。
だがある時期が来れば、またそこで止まるだろう。
またそこで自信を失って彷徨うことになるだろう。
それでは「アドバイス」にはならないと思うのだ。
「慰め」だけが目的ならばいいのかも知れないが、
苦しむ人を真に想うならば、
時機を見計らって「真相」を伝えてあげるべきだと思う。
仏教は大いなる愛だが、同時に厳しい教えである。
大いなる愛だからこそ厳しいのである。
大いなる愛を説きながら、叱咤激励しているのだ。
本心で命を想えばこその叱咤激励である。
大いなる愛の厳しさを心で理解することができれば、
その人は素晴らしく飛躍できると思うのである。
自信を無くした人には「自燈明 法燈明」を知ってもらいたい。
自力他力を超えた領域を知れば、きっと自信が湧いてくる。
全てに生かされながら己で生きている。
己という「唯一無二」が生きている。
己で生きながら全てを生かしている。
全ては己に入り、己は全てに入っている。
己に全宇宙が映り、全宇宙に己が映る。
己の全ては、全宇宙に刻まれている。
≪≪ 一 即 一 切 一 切 即 一 ≫≫
≪≪ 極 大 極 微 円 融 無 限 ≫≫
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:07:12 ≫