<< 自力他力 01 >>
よく宗教論議で、自力とか他力とか議論される。
そこで繰り広げられる議論応酬は際限が無い。
そして話はどんどん宗教の本筋から離れていく。
ひたすら自力他力という言葉に呪縛されていく。
ただただ比較の概念だけに囚われていく。
なぜ比較しようとするのか不思議でならない。
そもそも、自力と他力はオーバーラップしている。
自力を否定したら、そもそも祈りに入れない。
他力を否定したら、そもそも祈りに入れない。
真の祈りには自力と他力の境界など無いのだ。
その境界を超えた領域が真の祈りなのである。
深い祈りに入る人なら、
こんなことは知っているはずなのだ。
だから議論に走る人というのは、
実体験での深い祈りを知らない人だと思う。
実践で深い祈りに入っていないのだと思う。
ジーザス!!!・・・と祈るとき。
アヴェマリア!!!・・・と祈るとき。
南無阿弥陀仏!!!・・・と祈るとき。
南無妙法蓮華経!!!・・・と祈るとき。
自力も他力も無いはずである。
そんな概念を超えた領域に入っているはずである。
そんな概念に囚われていたら祈りでは無くなるのだ。
すべては、オーバーラップしているのである。
そのオーバーラップを実感してこそ祈りなのだ。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:07:05 ≫