<< 信満成佛 >>
 
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華厳経に「信満成仏」という言葉がある。
この言葉の意味は途轍もなく深い。
だから手短に説明することはできない。
それはできないが、少しだけ書いてみる。
まず、「信じる」ということの説明が難しい。
この場合の「信じる」は、
心の深奥から湧き上がる「信」である。
理屈を超えて「湧き上がる」ものである。
だから「信じてみよう・・」という次元ではない。
あるいは「盲信:妄信」の次元ではない。
「盲信:妄信」とは、
そもそも「理解できていない」状態なのである。
だからそれを「信」とは呼ばないのである。
理解できてこそ、「信」が湧き上がるのである。
心の深奥で理解できた次元の「信」なのである。
深奥から揺ぎ無い「真信」が湧き上がるのである。
「信満成仏」の信とは、そういう信である。
 
仏への信が満ちた時、その人は仏である。
信が満ち満ちた時、その人は仏である。
この今生に生きながら仏なのである。
華厳は、そのように語っている。
だが実は、その「信」こそが至難なのである。
深奥から湧き上がる「真信」の境地が至難なのである。
だからこの信満成仏もまた、至難の道なのである。
そしてまた・・・・
そしてまた至難なのは、その境地の持続である。
その至高の境地を、今生の生活で持続できるか??
生身の身体を着たままで持続できるか??
信が満ちるということは、行も満ちるということだ。
仏行そのもので生きていくということである。
身体を着たままで、それができるのか??
つまりは、そのように至難なのである。
だがしかし・・・・
だがしかし、「その瞬間」は、確かに仏である。
心の深奥から信が湧き上がった瞬間は仏である。
つまり「仏の光を見た瞬間」のことである。
 
この「信満成仏」は、多くの高僧に勇気を与えた。
「親鸞」もまた、この言葉に励まされたようである。
「道元」もまた、励まされたようである。
華厳経には「信は道の元にして功徳の母なり」とある。
道元という僧名は、もしかしてここからきたのか??
空海は「即身成仏儀」を書いて儀義を唱えたが、
おそらく信満成仏の至難を了解していたはずだ。
だから「儀義」の方向に突き進んでいったのだと感じる。
 
この「信満成仏」とともに、
「初発心時便成正覚」という言葉も華厳にある。
これもまた途轍もなく意味が深いので、
極めて解釈が難しいとされている。
だが敢えて簡単に説明してみる。
これは字義通りに、
「菩提心が目覚めた瞬間に正覚に到達する」である。
そもそも菩提心とは、「仏への信」から起こる。
仏を全霊で感得した時の信による菩提心である。
「我もまた仏の正覚に到達しよう!」
「我もまた全ての衆生を救っていこう!」
という全霊の誓願に満ち満ちた菩提心である。
その境地はもはや正覚の境地である。
だがその真の菩提心こそが至難なのである。
「心の深奥から湧き起こる菩提心」だからである。
それは理屈で知って湧き起こるものでは無いのである。
そしてまた今生での菩提心の持続が至難である。
身体を着たままでそれを持続することが至難である。
だが生身の身体を着たままで、
それを「目指し続ける」ことが尊いのである。
目指し続ける姿勢は、もはや正覚境地に近いはずである。
華厳はつまり、その「目指す姿勢の尊さ」を語っている。
衆生無辺誓願度
煩悩無尽誓願断
法門無量誓願知
仏道無上誓願證
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:07:04 ≫