<< 鎮 心 波 >>
生きていれば、いろんなことが起こる。
毎日毎日、いろんなことが起こる。
一日の活動で心は波立ち泡に塗れる。
想像以上に心の中は泡だらけになる。
だからその波を鎮めて泡を消すのだ。
できるだけ澄んだ状態に戻すのだ。
そうしないと、心眼の視界が悪くなっていく。
見えるものが、見えなくなっていく。
深い洞察が、できなくなっていく。
そして感応力を失っていく。
もちろん心力も、力を失っていく。
大自然からのインスパイアも、
まずは心の波を鎮めてからの話なのだ。
まずは「鎮心波」してからの話なのだ。
そこからいよいよ禅境に入っていくのだ。
そこからインスパイアが始まるのだ。
だからまずは鎮心波なのである。
私は山に棲んでいるから、山で鎮心波する。
だが街に住んでいる人も、部屋でできるはずだ。
テレビを忘れて。電話も忘れて。メールも忘れて。
電気を消して。音楽を止めて。パソコンを閉じて。
そういう状態で「静座」してみるといいと思う。
静座だから、正座のことではない。
「自分の静座」のスタイルで構わない。
そして無念無想に入っていく。
そして心の波を鎮めていく。
心の波を鎮めて、そして「引き摺り」を遮断する。
とにかく「引き摺りを遮断する」ことが重大である。
その日の「引き摺り」を遮断していかなければ、
どんどん引き摺るものが重く大きくなっていく。
そしていつか身動きが取れなくなっていく。
近ごろ「断捨離」という言葉が流行っているが、
最も重大なのは「心の中の断捨離」なのである。
心の中の断捨離が成されれば、
自ずと身辺も断捨離されていくのである。
だから毎日、心の中を断捨離するのである。
鎮心波によって断捨離していくのである。
確かに、楽しい時間も必要だろう。
賑やかな語らいの時間も、必要だろう。
ときめく趣味の時間も、必要だろう。
だがそれだけでは鎮心波できない。
「深い静かな時間」が必要なのである。
だがこれを忘れてしまうことが多いようだ。
とりあえずは目には見えないことだから、
だからいつの間にやら忘れ去られてしまう。
だがそれを怠ればだんだん、
怠ることによる支障が出てくるはずだ。
いろんなことを引き摺っていくことになるはずだ。
余計なことに囚われて自然体から懸け離れていく。
だから短時間でもいいから、深静の時間を持つことである。
たとえ10分でもいいから、鎮心波の時間を持つことである。
それによって、なにかが変わってくるはずだ。
思いもよらぬほどに、事態が変わっていくはずだ。
鎮心波の日課とは、そういう力を生んでいくのである。
世間では「スピリチュアル」に興味を持つ人も多いようだ。
いろんな儀式や守護宝珠などで日日の無事を願うようだ。
だがそういう「形」に頼る前に、己の心を見つめるべきだ。
究極は「己の心」なのだと知るべきである。
「形に頼る」ということは、己の心力に自信が無いのか??
もし「素手丸腰」の時には、どうするのか??
素手丸腰の時には、お手上げとなるのか??
だからいつでも素手丸腰の心構えが重大なのである。
私は他者を祈る時などに経を書いたりするが、
それはまた別の意味を持つものであり、
自分に関する普段は全くの素手丸腰である。
この心に刻まれた心力こそが「力」なのだ。
だからその心力を練磨していかねばならない。
まずは毎日の鎮心波が非常に重要である。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:07:02 ≫