<<心身練磨>>
 
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自分は空手道だったが剣道も好きだ。
好きというよりも「凄い!」と思っている。
剣道は子供の頃に少しやっただけだが、
防具を着けても相当に「痛い!」ことを憶えている。
「竹刀だから衝撃は少ないだろう」などと想像していたら、
それはまったく大きな勘違いである。
そして練達者の振る竹刀の威力は凄まじいはずだ。
とにかく剣道は見た目よりも格段にハードな武道である。
たとえば試合映像を観ていても、
どれほど厳しい稽古を続けてきたかが分かる。
姿勢や足捌きや振り腕や全体の挙動を見ていると、
どれだけ連綿と稽古してきたかが分かる。
とくに「足捌き」などは、真似することも困難だろう。
 
ところで映像の高校剣道者たちは、元気がよくて沈着に見える。
血気盛んな時期に武道で沈着な礼儀を知ることは有意義だ。
「礼儀知らずの血気盛ん」は些細なことでも暴発し易いだろうが、
「礼儀を学ぶ血気盛ん」は些細なことでは暴発しにくいはずである。
武道は時には「野蛮だ!」などと批判されるが、
もちろん稽古が厳しいのは当たり前の話だが、
もちろん怪我をすることも普通の話だが、
それは結局、克己自制への道程であり、
むしろ武道者は、だんだん野蛮とは離れていく。
血気盛んな者も多いが、「普通は」自制を覚えていく。
普通は「加減」を体得するようになるし、
普通は無意味な闘争からは離れるようになる。
それが武道に於ける重大な課目であるからだ。
別にやたらと紳士然とする必要は無いと思うが、
やたらと慇懃に礼儀人を振舞う必要は無いと思うが、
そこら辺は自然体でいいと思うのだが、
沈着泰然の度量は極めて重大だと思う。
なぜなら怖れや興奮で「判断」を誤るからである。
だから心を鎮静して深い判断ができるように、
そのように鍛錬していくのが武道だと思う。
武道では「どのような境地でいられるか?」が問われる。
「どんな場面でも武道の境地でいられるか?」が問われる。
それはもはや勝敗を超えて、最も重大な武道義だと思う。
空手も剣道も、奥には「禅」が息づいているはずである。
「拳禅一如」や「剣禅一如」という言葉があるが、
それは単なる飾り言葉ではないはずである。
武道を通して「禅」を学ぶ意義は大きいと思う。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:06:25 ≫