<< 宗教問題 >>
以前にも書いたが、
ことあるごとに宗教が問題視される。
「人間」に問題があるのに、宗教が批難される。
「人間」が元凶なのに、宗教が元凶にされる。
そもそもそれは、本当に「宗教」なのか?
人間思考で発想された「人間界思想」ではないのか?
そもそも人人が描く宗教概念とは、どういうものだろう?
教典のことだろうか??宗門のことだろうか??
それとも教団のことだろうか??
人が宗教を批難する時、宗教のどこを批難しているのか?
本当に宗教を知っていて、その上で批難しているのか?
そこら辺が、どうもよく分からないのである。
もしかして教団を批難する場合が多いのかも知れないが、
教団というのは、「人間」が作ったものなのである。
本来的には、それは宗教の根本とは別世界なのである。
それが純粋に「学びの場」であるうちはいい。
だがだんだんに「学びの場」を逸脱していく。
時にはまるで営業活動のようなものに変質していく。
あるいは「崇める」ことだけに気を取られるようになる。
あるいは他宗への強烈な排撃意識を育てていく。
そうして最も肝心な「学び」が疎かになっていく。
そういう傾向が目立つと感じるのである。
そして問題が起これば、ここぞとばかりに、
敬虔心否定主義者たちが喜び勇んで宗教を叩く。
「だから宗教は危険なんだ!」
「だから宗教は怖いんだ!」
「だから宗教なんか不要なんだ!」
「宗教なんか無くなればいいんだ!」
世間もそれに煽られて敬虔心否定主義に染まっていく。
敬虔心否定こそが健全であり正気であると信じ込んでいく。
そして敬虔心否定主義を信仰する信者になっていく。
「人間の次元の思考」だけを盲信する信者になっていく。
誤解する人が多いと感じるが、
人間が宗教に「利用されている」のではない。
人間が宗教を「利用している」のである。
人間が宗教を利用するから問題が起こるのだ。
人間が利用する宗教を「宗教」と呼ぶならば、
仏教もキリスト教も「宗教」では無いということだ。
それを「宗教」という言葉で呼ぶことはできなくなるのだ!!
たとえば仏教根本もキリスト教根本も、
一度たりとも人間を利用していないのだ。
人間こそが、それを利用してきたのだ。
「恩を仇で返す」とは、このことだ。
人間はどこまで身勝手で強欲なのだろうか。
本来宗教とは、「教えと学び」・・それだけである。
そこにあるのは、「教えと学び」・・だけなのである。
それなのに、人間は必ず邪心を起こして利用する。
まず、「自分に都合のいい身勝手な解釈」である。
そしてたとえば「金儲け」とか。たとえば「名誉」とか。
あるいは「権力」とか。あるいは「戦争の名目」とか。
そうやって人間は宗教を利用していく。
本来は「教えと学び」なのに、真逆に利用していくのだ。
「人間は度し難い」と言うが、それは本当の話だろう。
「導き難い」からこそ羅針盤が必要なのだが、
その羅針盤さえも身勝手に利用してしまうのである。
たとえば「宗教戦争」という言葉がある。
よく考えてみて欲しい。
宗教が戦争を起こすのか??
戦争を起こす宗教が「宗教」なのか??
それではそもそも「宗教」として成立しない。
そもそもそれでは宗教とは呼べないではないか。
そもそもそれは宗教ではなく、人間思考なのである!!
人間思考を宗教と呼ぶなら、宗教を知らないということだ。
それはまったく、「宗教を分かっていない」ということである。
つまり世の中の多くの人は、「宗教」を知らないのである。
危険なのは「人間思考」なのである。
人間思考が、戦争を引き起こすのである。
人間の思考のレベルは、そういう次元なのである。
だからこそ人間には、羅針盤が必要なのである。
人間の思考を超えた次元の「教え」が必要なのである。
だが人間は、「そんなものは必要ない!」と言う。
自信満満で言うのだから、このまま迷走は続くだろう。
ところで巷では相変わらずに、
「マインドコントロール」という言葉が流行っているようだ。
「洗脳」とか「呪縛」という意味で使うのだろうか。
だがよく考えてみて欲しい。
世間の大勢が、マインドコントロールされているのだ。
物質主義に。拝金主義に。欲望主義に。
あるいは敬虔心否定主義に。
あるいはまた人間至上主義に。
それはそれは強烈な「マインドコントロール」である。
だが大勢の人人が、自分のその状態に気づかないのだ。
そして自分のことは棚に上げて、他者のことを批判する。
多くの人人は純粋な敬虔心に対してさえも、
「マインドコントロールされている」と揶揄する。
だが敬虔心否定こそが健全で正気だという風潮の元で、
社会は本当に健全で正気になってきたのか?
たとえば学校の「卑怯な虐め」は無くなったのか?
「虐めは卑怯なんだ!卑怯は恥ずかしいことなんだ!」
「弱い立場の者を虐めることは、最も恥ずかしいことなんだ!」
それを堂堂と胸を張って叫べる大人が何人いるのか?
時には身を挺して虐めを阻止する大人が何人いるのか?
「虐めは卑怯なんだ!!」
「卑怯は恥ずかしいことなんだ!!」
こんなシンプルな倫理さえも、教育されないではないか。
こんな明らかな倫理さえも、啓蒙されないではないか。
たとえば学校で学ばなければ、どこで学べるのだ?
家庭で学べるのか??本当に親が導けるのか??
親は職場で学べるのか??本当に上司が導けるのか??
親や上司もまた、導きを必要としているのではないのか?
こうして卑怯な虐めが蔓延する社会が続いていく。
学校での虐め。職場での虐め。地域での虐め。
嫉妬。羨望。憎悪。虐待欲望。排撃欲望。支配欲望。
そして人人の心は、どんどん荒廃していくだろう。
外面は常識を装っても、内面は怖ろしい状態だろう。
経済充実文化:物質充実文化も必要なことだが、
それも必要なことだが、それだけで人心充実は訪れない。
だからこそ「敬虔心」が重大な鍵となるのである。
「どちらが大事か??」などという相対問題ではなく、
生きていく上では、その両方とも大事なのである。
「どちらが??」などと比較するから、おかしくなるのだ。
比較するから、その核心が見えなくなってしまうのだ。
比較する時点で、すでに大きく誤っているのである。
だがどうしても、比較してしまうようである。
人間は、比較が好きなのだろうか??
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:06:24 ≫