<< 動物愚弄因習行事 >>
 
ある神社で、集団で牛を組み伏せる行事がある。
その儀式によって豊作を祈願するという。
それは観光的雰囲気で楽しげに紹介されていた。
一目見て、気分が悪くなった。
それどころか、強い憤りを覚えた。
 
写真を見れば、それはまだ子牛に見える。
体格からして、まだ未成牛だと思う。
その子牛が背に鎧武者姿の男性を乗せている。
それだけでも、想像以上に相当な負担である。
そして「鼻輪」を強く引っ張られている。
鼻に鼻輪を通されて、
それを引っ張られれば、どういうことになるか。
当然ながら、激しく激しく痛いのである。
そして痛みを堪えて抵抗すれば、鼻が壊れてしまう。
だからやむなく、牛は従うのである。
牛の鼻輪は、まことに痛痛しい。
牛の鼻輪を見かけるたびに哀しくなる。
それは人間の卑怯な支配の象徴に見える。
 
大勢の観衆の前に引き出され、
大勢の人間に引っ張り回され、
そして集団から強引に引き倒される。
よってたかって無理やりに組み伏せられる。
要するに、「牛を屈服させる」という儀式である。
牛を屈服させて神様に願い事をするという儀式である。
これは「荘園維持行事」であったと書かれていた。
領地に於ける増産祈願の儀式だったようである。
だが写真から伝わる雰囲気は、「因習行事」である。
そこからは敬虔心など、微塵も伝わってこない。
だいいち、皆が楽しそうに笑っているではないか。
それが敬虔な祈りの場面なら、なぜ笑っているのか。
いくらなんでも、これは因習の次元である。
まさかこれを神事とは呼ばないだろう。
 
牛の身になれば、これは受難である。
どれほど不安か。どれほど怖いか。どれほど苦痛か。
牛の感受性は、たとえば犬とまったく同じである。
牛の可愛さは、たとえば犬の可愛さと全く同じである。
牛もまた、海よりも深い感性の持主なのである。
その牛の身になれば、これはおぞましい因習である。
その牛は、ゆくゆく食われる境遇だと思われるが、
つまりは食われる境遇の命に対する「感謝」も、
そこには微塵も感じられないのである。
とにかく、まずは「鼻輪」を引っ張るのは止めるべきだ。
そんなことは、考えなくても分かるはずである。
 
動物を弄ぶ因習行事は、世界中で様様にあるだろう。
そればかりか「生贄の儀式」も、まだ相当にあるだろう。
人間は貪欲に動物を利用し尽しているのだから、
さらに追い打ちをかけるような真似は慎むべきである。
そこには厳かな敬虔心など、一片たりとも感じられない。
だいいち人間が自分達だけ幸せになろうという、
自分達の幸せのために「生贄を捧げる」という、
そういう身勝手な魂胆は、神仏になど通用しない。
そんな魂胆は神仏に通用するはずが無いのである。
そういう身勝手な魂胆が、ついには地球を壊すことになるのに、
実際にそうなってきているのに、人間は自覚できないのだ。
すべては根底で通じているのである。
異種の命を愚弄するということは、
大自然を愚弄しているということである。
人人は「共生!」と叫ぶけれど、
人人は「地球環境!」と叫ぶけれど、
まずは身近な動物に対する愚弄を反省すべきだ。
身近な動物への配慮心が持てるようになれば、
いろんなすべてが好転していくだろう。
すべては、根底で通じているのである。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:06:23 ≫