<< 今生寿命 01 >>
今生の命には寿命がある。
寿命には意味があり、
意味があるから寿命がある。
今生では、寿命があるから、命である。
寿命があるからこそ、今生の学びがある。
それを知らないと、ただ嘆くことになる。
それを知らないと、ただ怖れることになる。
それを知らないと、非理の野望を抱くことになる。
まず、己自身の身体で、無常を知る。
この世の全てが刻刻と変転することを知る。
一瞬一瞬に新たな別世界に変貌することを知る。
そのスーパーダイナミックの無常を己自身で知る。
だんだん老けて、だんだん衰えて、そして死ぬのだ。
そこで非理の野望に侵されて不老不死を夢見ると、
ゆくゆくは途方も無い「反動」に見舞われることになる。
それは人間が想像できない次元の反動である。
もし仮に今生で不老不死になったら、
人間は今よりも苦しむことになるだろう。
簡単に言えば「死ぬに死ねない・・」状況になるのだ。
今生の学びを終えても、次の学びに旅立てなくなる。
新たな次元の学びの旅に、旅立てなくなるのだ。
肉体を纏ったまま延延と今生に居残ることになるのだ。
それは相当に苦しいことだろう。
いつまでも延延と肉体から解放されないのだから。
そしてもうひとつ。
この今生世界は、「バトンタッチ」である。
次次と命たちが、バトンタッチしていくのだ。
そこでもし人間が不老不死になったとしたら、
いったいどういうことになるのか??
そんなことは考えなくても分かることである。
即座にバランスは崩れていくのである。
この現世の調和は、滅茶苦茶になるだろう。
というよりも、そもそも調和など成立しなくなる。
「無常」だからこそ、調和が成り立つのである。
人間は他の命を食うが、
自分が食われることは拒絶した。
人間は他の命の天寿を削ってきたが、
自分は天寿でさえも満足できずに、
それを逸脱した非理の長命を強欲に求める。
そういう利己主義が、どういう結末を招くか??
そんなことは考えなくても分かることである。
誰だって自分が食われたくはないだろうが、
誰だって若いままで長く長く生きたいだろうが、
だがそれが「当たり前のことでは無い」ことに、
本来ならば「極めて不自然なこと」だということに、
せめてそれに「気づく」ことが必要だと思うのだ。
まずは、「気づく」ことが大事である。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:06:17 ≫