<< 犬の抗議表現 >>
 
もちろん犬にも、抗議の権利はある。
それは当たり前の話である。
当たり前の話なのに、多くの場合は赦されない。
犬が人間に抗議することが、赦されていないのである。
たとえば「理不尽極まる扱い」に対しての抗議も、
それすらも、多くの場合は赦されていないのである。
もちろん防衛のための抗議も、同様にそうである。
考えてみれば、これは相当に怖ろしい支配社会である。
 
人間ならば、「やめてください!!」と口で言える。
人間ならば、「手で払う!」「手で押しのける!」こともできる。
だが犬は、そういった行動はできないのである。
やめてください!!というのは、「牙を剥く」ことになる。
手で払う!!というのは、「牙が当たる」ことになる。
だが多くの飼主は、犬のその表現だけでも驚いてしまう。
「なんてこと!!牙を剥くなんて!!」と驚いてしまう。
飼主は「絶対に赦さないからね!!」と復讐に燃える。
こういうケースが結構多いと感じるのである。
要するに、その飼主は「怖い!」のである。
その飼主は「怖い!」から、
驚いて頭に血が上って復讐心が起こるのだ。
要するに、気持に「余裕」が無いのである。
気持に余裕が無いから、深い判断ができないのだ。
 
多くの犬たちと本気で付き合う生活なら、
たとえば「牙が当たる」程度など普通のことである。
何かの拍子に、そういうことは起こり得るのである。
そんなことは、いちいち気にすることではない。
いちいち気にする人ならば、統率者にはなれない。
そういう人の心境は、たちまち犬たちに見抜かれる。
それでも犬たちはその人を立てるだろうが、
その人を「尊敬」することはできないだろう。
その人はつまり、統率者にはなれないということだ。
 
巷ではよく「咬む」という言葉を聞くが、
あまりにも「咬む」を大雑把に混同している。
「咬む」には、段階があるのだ。
「段階」があるのに、それが無視されている。
それでは犬の立つ瀬が無いだろう。
犬はもう、どうしていいか分からなくなるだろう。
牙が当たっただけの場合もあるはずだ。
肌に歯型が残っただけの場合もあるはずだ。
だがその程度でさえ、驚いてしまう人が多いようだ。
「犬の表現」というものを、理解できない人が多いようだ。
そんなことでは、「犬」という動物とは暮らせないだろう。
もし犬が本気で「攻撃」したならば、
それは人人の想像を超えた破壊力となるのだ。
ちょっとやそっとの怪我では済まなくなるのだ。
だが普通は、犬は「攻撃」のレベルまでいかない。
普通は、「攻撃」のつもりなど無いのである。
そのずっと手前の段階を表現するだけなのだ。
問題は「そのとき人間がどのように対応できるか」である。
その「対応の仕方」によって、事態が変わってくるのである。
 
社会はもう少し、「犬」という動物を勉強すべきだ。
犬という動物の、「表現」を勉強すべきである。
それを分かっていないから、「問題」となるのだ。
問題となるから、ついには飼えなくなるのだ。
ついには飼えなくなって、犬は保健所行きとなる。
分かっていれば、それが「問題」とはならないのだ。
問題とはならずに、普通に対応できるのである。
ごくごく普通に、平常心で飼えるのである。
 
ただし、中には極めて「過敏」な犬もいる。
過敏だから、「過剰反応」になる。
そういう過剰反応の個体の場合には、
確かに飼主の手に余るだろう。
手に負えないケースも出てくるだろう。
そういう場合には、それに対応した環境で飼うしかないだろう。
それは確かに、飼主の精神的な負担になるだろう。
だが実は、そこには大いなる学びが隠されている。
それを学びにできるかできないかは、その人次第だと言える。
ところで、その異常な「過敏:過剰反応」は、
これまで人間が行なってきた「無配慮繁殖」が、
それが最大の原因だと思う。
自然界から見れば、それはまさに常軌を逸した繁殖である。
どんなに理屈を持ち出しても、無配慮至極の繁殖である。
「犬」という動物からすれば、そうなのである。
「犬という動物の健全さ」の観点では、そうなのである。
だが社会は、それを全く分かっていないようである。
それは精神的な傾向の問題だけではない。
その肉体にも、甚大な支障が起こっている。
人人が想像するよりもはるかに甚大な支障である。
犬は本来なら、極めて丈夫な肉体の持主なのだ。
それなのに、世間を見渡せば、不調の犬が多過ぎる。
なんでこんなにも、不調の犬だらけなのだろう??
動物病院に通うことが「正しい飼育方法」のような有様である。
動物病院に通うことを競っているようにも見える。
薬理や医療への依存が「愛育」だと思い込んでいるようだ。
それが「普通」の様子なので、ほんとうに驚く次第である。
それもこれも、これまでの人間の「幼稚な繁殖行為」が、
それが最大の原因なのである。
そろそろそのことについて、世界が本気で考えるべきである。
これは世界スケールの問題なのである。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:06:13 ≫