<< 野 性 美 >>
先日は日中に、狐が訪れた。
ゆったりとゆったりと森を歩いていた。
その姿は、まったくの自然体であった。
人里で狐を見かける人もいるだろうが、
人里での狐の様子は、
こんなに悠然とはしていないだろう。
人里で見る姿は、森の狐の姿とは違うのだ。
森の中の狐の姿は、実に堂堂と美しい。
だからとても大きく見える。
その挙動は、まるで大型獣のようである。
野性の「気配」は、とても美しい。
大自然の神域の芸術である。
もちろん姿もそうだが、その気配が美しいのだ。
彼らのその気配に、大いなるものを学ぶ。
そこには人間世界とは異なる深静境があるのだ。
野性のそういう部分を、知って欲しいと思う。
ただ生態を観察するだけでなく。
ただ行動を記録するだけでなく。
ただ姿を写真に撮るだけでなく。
彼らの精神領域を、知って欲しいと思うのだ。
彼らの野性禅を、知って欲しいと思うのだ。
人間にも、そういう部分が必要だと思う。
そういう深静の自然体が必要だと思う。
それはとても重大なことだと思うのだ。
私は犬たちの中にも、そういうものを見ている。
犬たちにもまだ、そういう部分は残っているのだ。
日常の中で見る機会は少ないかも知れないが、
そういう素質は犬たちの奥深くに隠されている。
私はそれを、いつも真剣に見つめている。
ただ「可愛い」だけでなく。
ただ一緒にいて楽しいだけでなく。
彼らの中の野性禅を、知って欲しいと思うのだ。
それを知ることによって、飼主も大きな学びとなる。
人間世界ではなかなか得られない学びができるのだ。
※しかしながら森の狐の野性の動きは、
犬にはちょっと真似できないレベルだと感じた。
たとえ抜群の運動能力の犬でも、
あの動きは真似できないように感じたのである。
ただ素早いとか身軽とか、そういう意味ではない。
なんというか、「動きの質」が独特なのである。
野性たちは、何のために生きているのか??
その生涯そのものが、大自然の調和に貢献している。
一頭一頭のそれぞれが、偉大な調和のメンバーである。
それぞれの命たちが、絶妙な役割を担っている。
それは不可思議な絶妙であり、深秘そのものである。
大自然は、彼らそのものである。
彼らの生涯が、すなわち大自然である。
そして野性たちの使命は、調和貢献だけではない。
調和貢献という偉大な仕事の他に、もうひとつある。
それは「尊いものを知る」ということだ。
過酷な生活の中でも、彼らはそれを忘れない。
彼らは、「尊いもの」を感じて生きている。
湧きあがる慕情で、いつもそれを想っている。
大自然の中に、「尊いもの」が潜んでいるのだ。
それを感じ、それを知り、それとともに生きているのだ。
だからこそ、あれほどまでに全身全霊で頑張れるのだ。
彼らは言葉で哲学を語らないが、
だが彼らは、己の全身で哲学している。
彼らは言葉で敬虔心を表現しないが、
だが彼らの全身が、敬虔心に満ちている。
彼らは、ただ生存のために生きているのではない。
彼らは、ただ種の存続のために生きているのではない。
彼らの「生存のための行動」だけを観察しても、
彼らの真の姿は分からないままに終わるだろう。
彼らの真の姿を知るには、
人間特有の固定観念を超えなければならない。
それを超えれば、彼らの真の姿が見えてくる。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:06:08 ≫