<< 命 は 心 >>
 
命とは、心である。
もちろん人間だけではない。
あらゆる命が、そうである。
あらゆる命が、身体を着た心である。
 
今生の命は、身体を着た心である。
「身体を着た学び」に励む心である。
「身体を着た状態の特殊な学び」に励んでいる。
それは滅多に体験できない、特殊な学びである。
身体を着た瞬間に、心は別次元の学びに入るのである。
身体を通して「実感!!」する学びなのである。
その「実感!!」にこそ、重大な意義が隠されている。
その「実感!!」のために、命は今生に生まれた。
 
悲しいとき、胸が張り裂けそうになる。
不安なとき、胸がざわめいて鎮まらない。
怖れのとき、胸が震えて動けなくなる。
喜びのとき、胸が躍ってスキップしたくなる。
感動のとき、胸が熱くなって叫びたくなる。
あるいは心が緊張で固まると、身体も動かなくなる。
あるいは雑念境では、身体は本領を発揮できない。
あるいは心が停滞すると、身体も停滞する。
なぜなら心が身体を導いているからだ。
停滞すると、身体は途端に失調していく。
そして心も身体も、共倒れになってしまう。
そういうふうに、心は身体と一緒に実感する。
身体を着ているから、より鮮明に実感する。
命は今生で、より鮮明に「実感!!」する。
命という心は、そうやって今生を旅していく。
 
身体があると、苦しいことが多い。
身体があると、いろいろ制約される。
身体があると、次次と煩悩が起こる。
そのような特殊な状況の中で、
「目指す!」ことの重大さを学んでいく。
「苦しい中でも目指せるか?」が問われることとなる。
身体から離れて深静境に入ることも重大だが、
身体と共に「乗り越えていく」体験も重大である。
そのどちらもが同等に必要な学びなのである。
その両方があってこそ、より大きな学びになる。
身体の煩悩を抱えながら「目指していく!」のだから、
今生の学びもまた凄い学びなのである。
ところで煩悩を「滅却」することなどできないが、
それを消すことはできないが、薄めていくことはできる。
「目指す!」ことによって薄めていくことはできるのだ。
だが目指さなければ、いつまで経っても薄まらない。
それどころか、煩悩はエスカレートしていく。
心はどんどん、煩悩に侵されていく。
もはや「学び」という話ではなくなってしまう。
もし「目指す!」ことを忘れたら、
ただ迷宮に彷徨い続けて終わることになる。
 
命は、心である。
その心が、身体を着ている。
身体を着て、学んでいる。
そして今生の学びが終われば、
身体を脱ぎ捨てて大宇宙に帰る。
そしてまた新たな次元の旅が始まるのである。
※どんな次元世界が待っているか??
そんなことを考える必要は全く無い。
一瞬一瞬に「未来」は変わっていくからだ。
「今、この一瞬」が、次次に新たな未来を造るのだ。
一瞬一瞬に運命は変わる。一瞬一瞬に未来は変わる。
それほどまでに、この世はスーパー・ダイナミックなのだ。
想像をはるかに超えて、スーパー・ダイナミックなのだ。
それが理解できれば、生き方も劇的に変わるはずである。
 
たとえば虫たち。鳥たち。熊たち。人たち。
それぞれの心が、学びの旅を旅している。
それぞれの学びが、偉大な意義を持っている。
それぞれの学びに、優劣など無い。
そこには、優劣など無いのである。
ただ学びの外見が違うだけなのである。
懸命に学ぶ者の姿は、まことに美しい。
その全身全霊の姿に、真実が輝いている。
 
命は、心である。
あらゆる命は、心である。
その視座で命たちを見れば、
異種の命も全く別の姿に映るはずだ。
どれほど「心」が頑張っているか分かるはずだ。
どれほど「心」が困難に挑んでいるか分かるはずだ。
彼らの心の尊い輝きに気づくはずである。
その視座で見れば、それに気づくはずである。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:05:31 ≫