<< 母 子 犬 >>
 
我が家族には、母子一家もいる。
保護した犬がその後に出産して、
そのまま全員が我が家族になった。
全員とも今も元気満満の毎日である。
 
今では皆が年配者になったのだが、
母と子の絆は、今もなおそのままである。
普段の表面上は、そういう表現を見せないが、
そこには目に見えない絆が隠されている。
私が子犬たちの世話をしていると、
母犬はそれを、いつでもじっと見つめている。
私が子犬に精一杯の愛情を注いでいると、
母犬は私に深く深く感謝してくれる。
子犬たちが幸せでいてくれることが、
母犬にとって大きな喜びなのである。
子犬もまた、私と母犬との光景を見ている。
母犬が幸せでいることに、子犬は大きく安心する。
だが普段は、決してベタベタ甘え合わない。
普段は全くの自然体なのである。
むしろ母犬は、今でも威厳に満ちている。
元気満満な雄子犬でも、母犬には一目置く。
今でもなお母犬に敬意を払い、母犬を立てる。
子犬たちは、完全に子犬時代を憶えているのである。
母の無償の愛と、母から学んだ日日を、憶えているのである。
普段は子犬たちは、そういう感情を見せないが、
母犬を散歩に連れ出す時には、様子は一変する。
他の犬たちを連れ出す時には平静なのだが、
母犬を連れ出す時には、子犬たちは大きく要求する。
「お母さんと一緒に行きたい!!」と・・・・
普段は実に静かに泰然としている子犬たちが、
今はもう、みんな年配者だというのに、
母犬の外出時だけはガラリと様子が変わるのである。
特別な間柄・・・そうとしか言いようがない。
≪日本犬の場合には、ここまでの表現は少なかったが≫
≪表現としては少なかったが、感情としては同様である≫
これは「子離れしていない」という意味では無い。
これは「親離れしていない」という意味では無い。
そういう意味では無く、
「母子の絆は続いている」という意味である。
 
私は出産の時から、ずっと彼らを見てきた。
母犬が子犬にどれほど無償の愛を捧げてきたかを見てきた。
そして子犬たちは、その「母の愛」を知っているのである。
犬のお産は安産の象徴となっているから、
人人は犬が苦労なく楽に産むと思っているかも知れないが、
犬が数頭の子を産む時には、最後の頃には精根尽き果てる。
ほんとうに、精根尽き果てるのである。
だが犬はその苦しさを大袈裟に見せないから、
母犬はとことん忍耐するから、
そんなに苦しいように見えないだけなのである。
そしてその後の見事な子犬介抱は驚異である。
誰からも教えられていないのに、全てが的確である。
そして母犬は、自らの身体を削って乳を与える。
どれほど身体を削るか、まざまざと分かる。
そういう毎日を、この目で見てきた。
私は彼らと一緒の部屋で寝起きしていたのである。
その毎日は、なんと言うか、聖なる世界だった。
それは「愛」という言葉そのものの世界であった。
我が家族には、命を賭けて子犬を護った母犬もいた。
その母犬は文字通りに、自らの命を賭けた。
私はだから、母犬の壮絶な愛を知っている。
それがどれほど偉大な愛かを知っている。
もしどこかの母犬が、幼い子犬と別れることになったら、
どれほどに悲しいことだろう。
もはや悲しいという言葉では表現できないほどだろう。
 
もし誰かがどこかで子犬を買ったとして、
その子犬の親代わりになることは、
実は途方もなく大変なことなのである。
その母犬と同様の愛で愛せるか??
その母犬と同様の教導ができるのか??
それを考えれば、軽軽しく買えないことが分かるはずだ。
買う人は、母犬と同様の覚悟があるのか、考えてみて欲しい。
そうでなければ、もちろんその子犬は不幸となる。
そしてその母犬もまた、心に傷を負って生きることとなる。
遠く離れていても、母犬には子犬の運命が分かるのである。
母犬の愛というのは、それほどまでに深い愛である。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:05:07 ≫