<< 熊 の 心 >>

「熊牧場」というものがあるようだ。
不幸な事故が起こった熊牧場があるようだ。
ネットの写真で見る限り、
それは「施設」と呼べるものでは無い。
そもそも施設というものは、その範囲の中で、
できる限り快適に生活できる環境を工夫した場所である。
その工夫と配慮が無い場所は、それは施設では無いのだ。
それは施設どころか、虐待場である。
それは熊にとって、まさしく虐待場だったのだ。
狭い檻と、ただコンクリートの壁に囲まれた空き地。
コンクリートの壁が、景色の全てと言ってもいい。
その中で、いったいどうやって生きろと言うのか。
いったい何を生き甲斐に生きろと言うのか。
そこで生きろと言うこと自体、すでに虐待である。
何も見えない中で、かろうじて空が見えるだけで。
もし自分がそこで一生を生きろと言われたらどうなるか。
自分の精神はいつまで失調せずにいられるか。
精神は壊れ、心は引き裂かれていくだろう。
だが熊たちは、そこで暮らしていた。
全ての生き甲斐を奪われながらも。
ただ生きる使命の一念で毎日を耐えていた。
そんな場所に熊たちを放り込んだ人間は。
その人間は「心」を持っているのか。
「心を持たない人間」というものが存在すると言うことか。
心を持たない人間は、熊の心が分からないだろう。
考えてみれば、それは当然の話である。
この世で最も怖ろしい存在は、心を持たない人間である。
おそらく、魔者から心を抜き取られてしまったのだろう。
私は黒熊と同じ山に棲んでいる。
熊とは何度も至近距離で出逢っている。
熊が目前2mまで迫ったこともある。
山の中で逢うと、彼らは「黒い塊り」である。
その「野生の力の塊り感」は、圧倒的に凄い。
その黒熊と、いつも素手のままに逢ってきた。
そしていつも、私は普通に無事だった。
熊からすれば私など非力な幼獣同然だ。
黒熊は羆よりも小型だが、
人間にとっては黒熊の力でも充分過ぎるのだ。
というか、そもそも人間とは比較にならない。
そもそも人間とは「力の種類」が違うのである。
逢った瞬間に、それをまざまざと実感したのだ。
黒熊はほとんど非肉食生活だが、
その独特の立場でいるには、力も必要なのである。
そうでないと、黒熊は身を護ることができないのだ。
だから黒熊は、肉食獣に匹敵する力を持っている。
だが、熊とは何事もなく別れたのである。
熊はそのまま、立ち去って行ったのである。
熊が立ち去る時、私は「光の熊」を見たことがある。
その熊を見守るように、光の熊が寄り添っていたのだ。
それはおそらく、亡き母熊だったのではないだろうか。
熊と逢った時、私は熊の心を感じた。
野生の使命を果たそうという使命感。
できる限り争いたくないという平和心。
そして「尊い何か」を求める敬虔心。
そういう心模様が、一瞬の中に見えた。
ただ食い物を探して生き延びるだけではない。
ただ子孫を残すことだけが使命ではない。
熊は、この世の尊い何かを慕って生きているのだ。
心の中の本心は、それを慕い続けて生きているのだ。
それが、はっきりと分かったのだ。
熊と逢った時、なぜかはっきりと分かったのだ。
赤ちゃんの時から、熊は頑張った。
母熊と一緒の時でも、毎日が大変だった。
山にはもう、食べ物が少なくなったのだ。
大変だったが、母の偉大な愛を知った。
母に愛され、そして母から学ぶ毎日だった。
だがやがて最愛の母と別れて、独り立ちした。
まだまだ子供だったのだが、独り立ちした。
人間で言えば、中学生になった頃だろう。
それからの苦労は、想像を超えた苦労である。
時には、母を想って泣いた。
母を想って泣いたが、歯を食い縛って耐えた。
己の奥深くから聴こえる使命の声が熊の心を支えた。
毎日毎日、精一杯に生きてきた。
疲れ果てた夜、大自然の精霊に抱かれて眠った。
それが唯一の、熊の安らぎだった。
尊い何かと通じ合えるひと時に、幸せを感じた。
そういう光景が、フラッシュバックのように見えた。
熊と出逢った瞬間に、そういう光景が見えたのだ。
熊には心がある。
それは当たり前の話である。
だがそんな当たり前の話が、
人間世界では通用しないようである。
熊の命がどれほど無残に扱われているか。
世界中で、どれほど熊が残酷に扱われているか。
もし熊の心を認めても、その扱いは変わらないだろうか。
もし熊の心を知っても、人間は心を動かさないだろうか。
そうだとしたら、それもまた怖ろしいことである。
相手に心を認めなければ器物として扱い、
相手の心を知ってさえ器物として扱い、
人間は異種の命に対してどこまでも冷酷ということなのか。
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:04:25 ≫