<< 死 の 時 >>
 
誰にでも、死が訪れる。
生まれた以上は、死を迎える。
もし自分だったら、どのように死にたいか。
全ての者が、安らかに死にたいだろう。
苦しみ抜いて死にたいとは、誰も願わないはずだ。
生でもなく死でもない、
「生き地獄の淵」で苦しみたいとは願わないはずだ。
自分に置き換えれば、そんなことは明らかである。
我が身に置き換えれば、火を見るよりも明らかである。
 
なぜこんな話をするのかと言えば、
どこかで「苦痛死も安楽死も一緒!死は死だ!」
・・・というような言葉を見かけたからである。
苦痛死と安楽死は、断じて一緒では無い。
我が身に置き換えれば、即座に分かることだ。
肉体的苦痛を甘く見てはいけない。
肉体を纏う命にとって、それは最も耐え難いものだろう。
人類の歴史の凄絶な「拷問」を考えれば分かるはずだ。
なぜ手術で「麻酔」を使用するかを考えれば分かるはずだ。
だがこの「肉体的苦痛」というものを、
我が身に置き換えて感じることのできない人もいるようだ。
自分のこととして感じられないから、
だから「死は死!!一緒だ!!」となってしまうのだろう。
死をどこまでも怖れ、死をどこまでも敵視するということか。
その人は「生存こそが絶対だ!」と考えるのかも知れない。
だから「死に方」などは一向に意味を持たないということか。
 
なぜこんな話をするのかと言えば、
「東北被災家畜たち」の命運について考えたからだ。
被災家畜を殺処分から救おうと、
多くの人たちが嘆願を続けてきたようである。
その気持ちと努力には、まことに頭が下がる思いだ。
政府の方針は、「安楽死」を用いる予定だったらしい。
それが実際に安楽死となる手段かは詳しく知らない。
しかし嘆願の人たちは、安楽死も反対のようだ。
「安楽死か疑わしい!!」という気持ちもあるのだろう。
だが、どうだろうか??
もし家畜たちが一時的に殺処分を免れたとして、
その先の行く末は、どうなるのだろうか??
あるいは、議論がこじれて時間がかかり、
その間にも家畜たちは飢餓に苦しんではいないのか??
実際、すでに被災から一年以上も経っているのだ。
どれほど長期間に亘って家畜たちは苦しみ抜いただろうか。
飢えが、どれほど辛いものか??
喉の渇きが、どれほど辛いものか??
死に至るまで、どれほど苦しみ抜くというのか??
動物たちは、息があるうちは、生きようとする。
彼らの本能が、命の使命を全うしようとするからだ。
だが実際には、生き延びる環境を失っていた。
生き延びる環境を失った状態で、それでも生きようとした。
だから、身体は想像を絶する極限まで絶え続けた。
それは「生存」とは呼べるかも知れないが、
しかし「生」と呼ぶには余りにも過酷すぎるだろう。
極限の苦しみの中では、時間が拷問となるのだ。
だから事態は、本当なら時間の猶予など無い状況だろう。
とにかく緊急に、いずれかを選ばなくてはならない。
安楽死を免れても、結局は過酷死では、さらなる悲劇である。
「一週間でも十日でも長く生きられたから・・・」
・・・などと喜ぶ人はいないと思うが。
「殺すな!」と叫ぶのは簡単だが、
ただちに即刻、その命を生き地獄から救出できるのか??
もしそれがどうしても不可能ならば、どうするべきか??
それは究極に深刻な問題だと思うのだ。
もし自分がその家畜と同じ極限状況だったら??を想うべきだ。
その命の心境に飛び込んで、その心境を実感すべきである。
安楽死を免れた場合には、どうなるのか??
大型動物を健康に生き生きと飼養することは大変なことだ。
それが多頭数ならば、当然ながら格段に大変な労力となる。
そしてもちろん、充分な施設と飼養資金が必要となる。
もし充分な施設と飼養資金が確保できなければ、
家畜たちを健康に生き生きと飼養することは難しいと思う。
事態は「殺さないで!」だけでは済まない問題だと思うのだ。
ただ「生存」を願うだけでは、根本の解決にはならないと思うのだ。
「苦痛死も安楽死も一緒だ!」という言葉が、疑問に残るのだ。
「殺すな!」と叫ぶのは簡単だが、
ただ「殺させない!!」だけを目的とするなら、
それは真の救護にはならないと思うのである。
ただし「殺させたくない!」という気持ちは、まことに尊いと思う。
それだけは、はっきりと言っておきたい。
 
そして・・そして被災家畜ばかりでなく、
食われる境遇の家畜にも、目を向けて欲しいと願う次第である。
今回の被災家畜の命運に胸を痛めた人たちは、
きっと「全ての経済動物」に想いを馳せてくれていると思うが。
彼らもまた死んでいくのである。食われるために。
死ぬまでの彼らは、どういうふうに生きているのか??
安らかに生活しているのか??
せめて安らかに死んでいくのか??
そういうことも考えてみて欲しいと願う次第である。
 
私は被災家畜の夢を何度か見た。
そこには母牛と子牛がいた。
母も子も、どちらも骨と皮の身体である。
母牛は、よろめく子牛を舐めていた。
そのとき、彼らの心の声が聴こえてきた。
夢の中でも、はっきりと聴こえた。
「この子を、安らかに死なせてあげたい・・・」と聴こえた。
「お母さんと、安らかに死にたい・・・」と聴こえた。
それは死が避けられないことを覚った上での心境である。
だが生存への本能が、彼らの身体を生かしていた。
それは生と死の境界上の最も苦しい状況だった。
もし死が絶対に避けられない運命ならば、
いかなる命も、安らかに死にたいのだ。
「せめて安らかに死ねたら・・・・」
「せめて安らかに死なせてあげたい・・・・」
死が避けられない場面なら、それが彼らの切実な願いだと思う。
私は、そういう夢を、たくさん見てきた。
長年に亘り、いろんな動物の、いろんな悲劇の夢を見てきた。
いろんな悲劇の、彼らの最期の声を聴いてきた。
それらの夢は、忘れようにも忘れられない夢である。
そして私は、慈悲としての死もあることを知った。
死は時には、命を生き地獄から救う慈悲の使者にもなる。
それは、極限の境界上にいる者だけが知ることとなるだろう。
だが私は、数数の夢によって、それを切実に実感した。
もし死が避けられない状況ならば、
全ての命が、安らかな死を迎えて欲しい。
彼らの心境を想えばこそ、それを切実に願う。
なぜなら世界中に無数にそのような状況の命がいるのである。
≪彼らをその状況に陥れるのも人間社会なのだが≫
≪その状況をただちに阻止することは悲しいかな無理である≫
ただ闇雲に死を敵視するだけでは、命の尊厳が見えなくなる。
ただ闇雲に死を忌み嫌うだけでは、命の尊厳が見えなくなる。
生でも死でもない「生き地獄」という境界もあることを、
それを我が身で感じて知っておくべきである。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:04:09 ≫