<<「欲張り躾:しつけ」 02>>
 
飼主は「犬同士」に対しても、
欲張りな躾感覚を抱く場合が多いようである。
犬同士に過剰に「仲良し」を期待することは不自然である。
犬同士の間には、深い事情が隠されているのである。
その深い事情を考えようともせずに、
ただ闇雲に「仲良く!仲良く!」では話にならない。
互いの異なる波長に慣れるにも時間が必要なのだ。
慣れるまでには「間合い:距離」も必要なのだ。
その「間合い」によって無意味な争いを避ける場合も多いのだ。
そういう段階を踏んで犬たちは協調に向かうのである。
互いに苦手な相手だったら、長い時間を要することもある。
どうしても相容れないライバルなら、
その先もずっと「間合い」を保ち続ける場合もある。
それが争いを予防する最も有効な手段である場合も多い。
それを知らずに無理やりに接近させて闘争を招く飼主もいるだろう。
その飼主はきっと、「躾が入らない!」と犬を責めるであろう。
犬同士で相性が合うなら、自然と接近するのである。
もし接近しないのなら、何かの事情が隠されているのだ。
それを無視して無謀に接近させれば、犬は大きく戸惑う。
片方が自然体に入れなかったら、もう片方も自然体を保てなくなる。
そうすれば、思いがけない不測の事態も起こり得るのである。
場合によっては、荒療治的な方法を用いることもあるが、
それが功を奏する場合もあるのだが、
それは犬を充分に知った人でなければ無謀となる。
そもそも犬同士を深く見れば、
どの程度の相性かは即座に分かるはずである。
もしそれが分からないなら、無謀は控えるべきである。
「飼主の主観での仲良し」を犬に期待し過ぎることは、
逆に犬同士の「暗黙の了解」を壊すことになりかねない。
それは躾どころか、「ぶち壊し」である。
犬同士には、「暗黙の了解」が隠されているのだ。
それによって微妙な均衡が保たれている場合が多いのだ。
その微妙な均衡は目には見えないから、気配で感じるしかない。
あちこちから躾の方法論を仕入れるよりも、
気配を感じるための自分の感覚を磨くことが先決問題である。
 
ところで巷では「躾論議」が盛んのようだが、
要するに「その飼主が何を目指しているか?」である。
その飼主が犬をどういうふうに見ているか?
その飼主が犬に何を求めているのか?
どういうふうに犬と暮らしたいのか?
どういう犬になって欲しいのか?
その飼主にとって、犬とはどういう存在なのか?
その飼主は、犬とどういう関係を築きたいのか?
それによって躾は全く別物となるのである。
つまり飼主によって躾像は異なり、躾論は異なるのである。
そもそもそういうことだから、躾論議は延延と続くだろう。
だがこれだけは、はっきりと言いたい。
「その犬にとってその躾は本当に躾なのか?」を考えて欲しい。
「自分が目指す躾は本当に躾なのか?」を常に自問して欲しい。
 
■南無華厳 狼山道院■
≪ 2012:03:31 ≫